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ブログ知人が、弁護士をされている弟さんの本を紹介されていて、その法律事務所に連絡して買い求めた。『わたくしは日本国憲法です。』(鈴木篤、朗文堂)。→http://pinhukuro.exblog.jp/22309347

これは非常に明快かつ分かりやすい憲法についての書で、最近進められてしまった教育基本法や生活保護法の改悪や、特定秘密保護法の制定、そしてさらには集団的自衛権の容認など、憲法の精神を踏みにじる事柄について、改めて思考と理解を深めることができた。

私=日本国憲法が語る、という形をとっている。そしてその論旨は極めて明晰である。

まず、国の役割について。
“国の役割は、そうして真理とか道義にしたがって、国民に奉仕することにあるのであって、真理や道義が自分(国家)にとって都合が悪いからといって、それをねじ曲げて、自分に都合の良い「真理」や「道義」をつくり出して、それを「これが真理だ」とか、「これが道義だ」などと国民に押しつけ、まして真理や道義を語ろうとする国民を弾圧するようなことを二度と繰り返してはならないということだ。”(「押しつけ憲法」より)

憲法改正案の虚偽について。
“つまり現在の日本国憲法であるわたくしは、日本国民を主語として書かれ、わたくしを葬ろうとしている自民党の改正草案は、国を主語として書かれ、国民は統治される対象とされているのだ。そのことによって憲法というものが、国民が権力・政府・国にたいし国民の権利を守るために制定するものだという最も重要な思想(民定憲法の思想)がぼかされてしまった、むしろ国が国民を統治するために制定するのが憲法だという思想(欽定憲法の思想)がこっそりと紛れ込まされているのだ。”(「わたくしの「前文」」より)

そして、第9条について。
“「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとっ務めている国際社会において名誉ある地位を占めたいとおもう。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」専制と隷従、圧迫と偏狭、恐怖と欠乏。これらのものこそが戦争の温床となり平和の支障となるのだ。(中略)ここで「諸国と」ではなく、「諸国民と」としていることには注意が必要だ。”(同前)

それぞれの人が陥る自分自身の怠慢についても直言してくれている。
“この国には沢山の団体がある。官庁、会社、法人、労働組合、被害者団体、各種の市民団体、自治会等々。しかしわたくしの目からそうした団体の運営の仕方を見てゐると、そこには民主主義とは相容れないやりかたが日常的にまかり通っているようにおもえる。(中略)そのように価値観と信念を持ったひとであるなら、どんな「偉い」ひとのいうことであっても、あるいはどれほどマスコミがもてはやしてもそれを鵜呑みにせず、自ら様々なひとの意見に耳を傾け、事実をじっかりと確かめた上で、ものごとについての自分の意見を形成し、その意見に基づいて行動し発言するはずである。しかもそうして形成した自分の意見についても、それが絶対だという立場に立つのではなく、新たに明らかになった事実によっては、意見を修正する用意を常に持っているという柔軟性も備えた立場に立つはずである。”(「国民自身の中にある民主主義的で無いものについて」から)

そして一人一人が陥るゴマカシについても容赦ない。
“みんなに抗して自分の独自の意見を述べることを「恥ずかしい」と感じてしまっているのであり、だから自分の本当の意見と異なる「みんなの意見」に賛成すること(つまり自分自身に嘘をつくこと)を「恥ずかしい」とは感じていないのだ。(中略)だが本当に恥を知っているなら、嘘をつくことこそ最大の恥のはずであるし、権威や権力におもねり、自己保身に走ることこそ重大な恥のはずではないか。”(「本音と建て前」より)


さいごの結語は心に、身に沁みる。

“わたくしの愛するあなたがた日本国民のみなさん、どうかわたくしを守ってください。わたくしを葬りさことがないようにしてください。わたくしはあなたがたが平和で自由な社会を築こうとするときに、無くてはならない、あなたがたのための武器なのです。どうかそれを手放さないでください。わたくしを殺さないでください。”


Saheiziさん、紹介してくださって、有難うございます。みんなに読んでもらいたい本です。

わたくしは日本国憲法です。

鈴木 篤 / 朗文堂

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by k_hankichi | 2014-08-31 10:19 | | Trackback | Comments(2)
ふと切り替えたチャンネルに、思わず心が留まった。セザール・フランクのヴァイオリンソナタを特集しているNHK・Eテレの『ららら♪クラシック』だった。

最終楽章はカノン形式を駆使しながら、終末に向かって高揚して盛り上げていく、その手法を説明してくれていて、分かりやすかった。

アラベラ・美保・シュタインバッハというソリストの演奏を初めて聴く。フランクを聴きこんでいた学生時代の思い出が、ふっと湧いてきた。元気の片鱗が、すっと身のなかに入り込んできた感じがした。

■フランク ヴァイオリンソナタ・イ長調 第4楽章(Vadim Repin and Nikolai Luganskyによる) →http://youtu.be/zH2IK0UWhgI


■アナベラ・シュタインバッハのポートレート →http://youtu.be/-vPOBkTIL6A

  
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by k_hankichi | 2014-08-30 22:21 | テレビ番組 | Trackback | Comments(3)
友人から『無名の人生』(渡辺京二、文春新書)を紹介され、みちのくからの帰途に読んだ。背負っていた荷物の重みに気付き、下ろしていいんだということも知る。

宮澤賢治も友人に次のような書簡を送っていたという。

「私のかういふ惨めな失敗はただもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過つて身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ・・・」

自分が陥っていた状態を「慢の病」と呼んだそう。

僕も、自分のことに思いを馳せる。そしてふと肩の荷を下ろした。

無名の人生 (文春新書)

渡辺 京二 / 文藝春秋

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by k_hankichi | 2014-08-29 07:48 | | Trackback | Comments(4)
“「ユモレスク」、このメロディを聴いたことのない人はまずあるまい。しかし、ここにあるのは、みなの知っている「ユモレスク」ではない。なにか、遠い、異次元の中で、だれか、人間ではないエイリアンが奏でているかのように聞こえる。そんな「ユモレスク」なのである。それはごくゆっくりと流れ出てくる。最初の音が弦の上を静かにすべりはじめ、少しふくらみ、静かに消えていく。すると次の二つの音が姿を現わし、それが消えるのを待ってまた次の音が現れ…ゆったりと時間は進行する。”

これはウジューヌ・イザイによる1912年の演奏のことで、『誰がヴァイオリンを殺したか』(石井宏、新潮社)は、ここから始まる。18世紀、19世紀の音楽家たちが伝えようとした音というものが、如何なるものだったのかということを、著者はさまざまな史実をもとに解き明かしていく。そして次のように断罪までしてしまう。

“現代のヴァイオリニストたちがどれもこれもごしごしときしんだ音を出して平気でいられるのは、ひとつにはもう繊細な耳を失っていることであろうし、それ以上に、その事実に気がついていないことによるであろう。いずれも耳がバカになっているのである。(中略)機械文明の発展が人間の耳を奪い、繊細な感受性を殺してしまった。人の心に優雅さが戻るのはいつの日になるのだろうか。二十世紀の批評家の厳格主義、教条主義がヴァイオリンから悦楽の精神をもぎとってしまった。この世紀の初めの録音に微かに残るイザイ、サラサーテの優雅な音のよみがえる日はあるのだろうか。”

僕たちがいまの音楽家たちを通して聴いているものは、作曲者たち生み出した音魂とはまるで異なったものなのだ、ということをようやっと理解した。

誰がヴァイオリンを殺したか

石井 宏 / 新潮社

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by k_hankichi | 2014-08-28 17:59 | | Trackback | Comments(0)

みちのくの秋の気配

今朝のみちのくは7時でも16℃。神奈川で残暑がまだ続くのかとやきもきしていた週始めとはうって変わっての、秋満載の気分である。

「秋風の
ヴイオロンの
節ながき啜泣
もの憂き哀しみに
わが魂を
痛ましむ。

時の鐘
鳴りも出づれば
せつなくも胸せまり
思ひぞ出づる
来し方に
涙は湧く。」
(「秋の歌」ポール・ヴェルレーヌ、堀口大學訳から)

ちょうどヴァイオリンについての本を読んでいて、19世紀の頃のその音というものは今の演奏家の音色と全く違うのだとあって驚いていたのだけれど、ヴェルレーヌはそういう音を聴いての感慨だったのかしらんと、その昔に思いを馳せた。
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by k_hankichi | 2014-08-27 07:44 | 街角・風物 | Trackback | Comments(3)
朝ごはん:福砂屋のカステラひときれ(土産物)、ヨーグルト載せコーンフレーク、明太子(土産物)載せごはん(半膳)。

昼ごはん:カフェテリアに行く時間なく、コンビニお握り二個、コンビニツナサラダひとつ。

夜ごはん:東京駅大丸のミート矢澤のハンバーグ単品(美味い!)、柿安ダイニングの蓮根ゴボウサラダ(こりゃ美味い!)、創作鮨処タキモトの古漬めはり寿司と高菜稲荷寿司(ボリュームと素朴な美味の世界!)、カヴァのドゥーシェ・シュヴァリエ・ブリュットのハーフボトル(ラッパ飲み、イケル!)。

恍惚と尻上がりな小さな幸せ、共に我にあり、漆黒のみちのく路。
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by k_hankichi | 2014-08-26 19:32 | 食べ物 | Trackback | Comments(2)
白石一文の新刊『愛なんて嘘』(新潮社)をさっそく読んだ。これは秀作短編集だ。それぞれの作品のなかには、通奏低音が流れている。それは、「人は結局のところ孤独だ。そのことを分かり合えている人と人の間に本当の愛がある。」というようなもの。

“私には義務も責任もないし、しがらみも義理も何もないの。私はただ流れているだけで、いつ死んだってぜんぜんかまわない。悲しむ人もいなければ、気にする人だっていない。私が死んでも、この世界の何一つとして変わるものなんてない。でもね、美緒ちゃん、私はこしてちゃんと生きているし、いろんなことを感じてるし、味わっているの。みんなには私がただ通り過ぎているだけのように見えるだろうけど、でもね、私は一歩一歩立ち止まって、ちゃんとこの世界を見てるの。私がみんなとちがうのは、そうやって私が感じたり味わったりしたことを何かに書いたり、誰かに喋ったりしないってことだけ。そんなことしちゃ駄目だって知ってるから。”(「夜を想う人」より)

どの短編も、主人公は、付き合っている相手から結局のところ離れていく。それはひとりだけの場合もあれば、そういった心が通じた相手のもとに還ってゆく。

嘘の愛とは、理想的な生活や理想的な夫婦や理想的な家庭といったことのなかに安住しようとした愛のこと。そこに気づいた人は、孤独ではなく還るべきところがあるのだ、ということを知る。

愛なんて嘘

白石 一文 / 新潮社

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by k_hankichi | 2014-08-25 07:05 | | Trackback | Comments(2)
土曜日は、世田谷美術館(http://www.setagayaartmuseum.or.jp/mguide/about.html)で開催されている『ボストン美術館・華麗なるジャポニズム展』(http://www.boston-japonisme.jp/top/)を観に行った。成城学園前駅から渋谷行きバスで途中下車していくのだけれど、何の変哲もない住宅地やら清掃工場などの合間を歩いていくと、いきなり緑豊かな砧公園が拓けてくる。その風景遷移が意外感があってよい。

日本の浮世絵や着物、意匠、調度品が印象派の画家たちに与えた影響の大きさを、上手に系譜だてて説明してくれる良い展覧会だった。

出色はやはり、モネの『ラ・ジャポネーズ』だったのだけれど、そのほかにもう一つ僕の心を打った絵があった。それは、ウィリアム・エドワード・ノートン(William Edward Norton)というアメリカの画家が描いた『夜』(1890年)という作品だった。

月夜に朧に浮かぶ船、そして水面にゆらゆらと反射する月の光。その幻想的なシーンからは、かすかに波の音が響いてくる。明るいシーンが多い印象派の画家たちのなかで、彼の筆致は異なっている。月影の哀しさとそこにある静寂な寂しさがそこにあった。

帰り道は、用賀駅まで歩く。途中、銭湯『栄湯』に立ち寄る。優しい気遣いをしてくれるおかみさんが居てほっとした気持ちになる。そしてその湯も、暑い道を歩いてきたふくらはぎが癒される44℃程度の熱さ。とても心地よかった。

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■クロード・モネ 『ラ・ジャポネーズ(着物をまとうカミーユ・モネ)』 →http://en.wikipedia.org/wiki/Claude_Monet#mediaviewer/File:Claude_Monet-Madame_Monet_en_costume_japonais.jpg
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■ウィリアム・エドワード・ノートン 『夜』
http://www.mfa.org/collections/object/night-551836

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by k_hankichi | 2014-08-24 00:21 | 美術 | Trackback | Comments(7)
神保町で買い求めた古本のなかに小塩節の『ザルツブルグの小径』(音楽之友社、1992年刊、現在は光文社の知恵の森文庫で手に入る)があった。小塩さんといえば、僕が学生時代にTVのドイツ語講座でずいぶんとお世話になったから、学校の語学の先生よりもずっと親しみがある。

そんな彼の著作や翻訳はいくつか読んでいたのだけれど、このエッセイ集のことは知らなかった。彼は大学に在職のまま1985年から1988年まで駐西ドイツ・日本大使館公使、ケルン日本文化会館館長をされたということで、この本は、そういったドイツ・オーストリアなどでの生活や旅を通じての音楽と食彩の手記だ。

『動作はキビキビしているのに、静かにつつましく注文を取り、銀のお盆を運んでくるウエイトレスは、ヒタとこちらの目を見つめ、全身でこちらを覗きこむようにして語りかけ、こちらの言うことを聞いてくれる。無用なつくり微笑みは浮かべない。しかし全身全霊でお客を迎えてくれている。彼女たちは仕事については絶対の自信をもっている。何を訊いてもたちどころに正確な返事が返ってくる。でもそれだけではない。女性としてというより人間として、実にいきいきとしており、存在感があり、相手に人間として向かいあってくる。ああ、いいなあ、と私は感動する。(中略)これが文化なのだな、と思う。』(「ウィーンのカフェ」より)

こんな章を読んでいると、昨年、ザルツブルグに出張した際に立ち寄ったカフェのことを思い出した。給仕の人たちは、正確で機敏な動きをし、愛想笑いではなく真摯なまなざしを我々に向けてくれた。

ドイツ語で「仕事をする」ということはArbeiteということで、それは日本語の言葉にある「アルバイト」のお手軽感覚とは全く異なることなのだ、ということを改めて思い出した。

Ich arbeite bei einer Elektrowarenfirma.

ザルツブルクの小径 (知恵の森文庫)

小塩 節 / 光文社

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by k_hankichi | 2014-08-23 09:56 | | Trackback | Comments(6)
残暑厳しいなか歌野晶午を昨日本日で読んだ。そして結末に到達したとき、深く溜め息をついた。自分がいかに先入観念で物事を見たり読んだり判断したりしているのか、ということを突きつけられた感がした。『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫)のことである。

直前に読んだ『春から夏、やがて冬』(こちらも文春文庫)に比べて、“目から鱗”感が断然にある。2004年の第57回日本推理作家協会賞、第4回本格ミステリ大賞、「このミステリーがすごい!」ランキング第1位を受賞したということも頷けた。

ちょうど所用で三田を訪れたときに頁を繰っていて、小説の主人公の妹が都立三田高校卒業とあり故あってドキドキしていたのだけれど、そんな感覚を桁違いに越えた奇抜さがある。

出だしはフィットネスクラブで身体を鍛え、女にも事欠かない男の生活描写から始まる。地下鉄の広尾駅で女性の飛び込み自殺を救い、知り合いになる。密かな恋心の芽生え。

ストーリーを読み進めていけば、青春テレビドラマのようなシーンが次々に思い描かれていく。しかしそうは問屋が下ろさない。

固定観念そのものが、完璧なまでに打ち崩されていくミステリーだった。

葉桜の季節に君を想うということ (文春文庫)

歌野 晶午 / 文藝春秋

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春から夏、やがて冬 (文春文庫)

歌野 晶午 / 文藝春秋

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by k_hankichi | 2014-08-22 18:39 | | Trackback | Comments(4)

音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です


by はんきち