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爽やかなれ若人たちよ
昨晩は仕事仲間の若者たち20名あまりと懇親の場を持った。それぞれに独創的な考えを持っていて、しかも爽やかに語る。世の中に不可解な事件が起きていて頭がぐちゃぐちゃになりそうだったから、久しぶりに心が洗われる。

或る若者はランニングが趣味と言っていて、姿かたちもスリムこの上なく、精悍な眼差し。

「どこを走るの?」

「山でっす。」

「ん?」

「日本の百名山っす。」

「え?」

「はい、下から頂上までかけ上るんっすよ。ものの一時間くらいっす。」

「ほ、ほんとう…。」

「毎週走りにいくんっす。山登りランニング、チーム募集してるんです。どうですか?」

「ぼ、ぼくは水泳だから…。」

「年いっても大丈夫っすよ、慣れですから、慣れ。」

人の体型も見咎めず、あくまでも爽やかである。僕が走る走らないは別として、嬉しくなった。

自分の不満や不安をまぜこぜにして、血も涙もない凶行を働いた件の若い輩に、聞かせたくなった。
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by k_hankichi | 2014-07-31 17:40 | 社会 | Trackback | Comments(2)
ナタン・ミルシテインによる最後のリサイタル
「最後の」と名がつく演奏やら作品は、殊更に聴きたくなる。『ナタン・ミルシテイン 最後のリサイタル』と題された音盤もそれだった。

1986年6月17日、スウェーデンのストックホルム、ベルワルド・ホールでのライヴ演奏は、82歳になっていたミルシテインが引退される前の最後のものとなった。

ベートーヴェンのクロイツェルソナタやヘンデルのソナタ、プロコフィエフやパガニーニ、リストなどが演奏されるなか、やはり一際立つのは、バッハの無伴奏パルティータ第2番、無伴奏ソナタ第3番だ。

知らずに聴けば、これが老翁によるものと思う人は絶対に居ないだろう。それは仁王門のようにデモーニッシュなシャコンヌで、その力は、弦を押さえ滑らせる指から血が出ているのではないかと思うほどだ。怖くなる。

その空間には、ミルシテインが音楽に追い求めた「生きることの真摯さ厳しさ」のようなものが漂う。その年になってまで和らぐことのない、真理を探ろうとする揺るぎない気持ち。

演奏を終えたあと圧倒されて息を吐くことも出来なかったろう観客の気持ちが伝わってくる。

無伴奏ソナタ第3番からは第4楽章アレグロ・アッサイ。こちらは衰えぬ技巧が披露され、解放感をようやっと味わうことができる。

みちのくへの道はミルシテインを深く味わうひとときとなった。

クロイツェル・ソナタ 最後のリサイタル

ミルシテイン(ナタン) / ダブリューイーエー・ジャパン

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by k_hankichi | 2014-07-30 09:54 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)
トンコツ化したザムザの焦燥の朝
今朝目覚めた僕は、身体全体が重くなっていることに気付いた。グレゴール・ザムザのことを思い出した。

あのザムザは、変わり果てた身に驚き、自らを繕って隠したり、抗弁をしたり、悲哀とそして愛との葛藤に向かってゆく。

僕の場合はどうだ。この、手足の末端まで身重感に満ちあふれているいま、全ての動作は緩慢で怠い。抗弁したり画策する気持ちも湧かない。

たおやか、とか、穏やか、といった感覚ではなく、ふてぶてしく、鈍感としか言えぬ感覚である。

どうしてこんなことになってしまったのか。記憶の螺旋を辿っていった。

考え直してもそれは瞭然だった。『とんこつらぁ麺・だるまのめ』の「味玉だるまらぁ麺」。

日曜日に味わっていた。ああっ、それだけにしておけば良かった。

昨晩、人に誘われたとき、あの風味絶佳な香りと食感を思いだしてしまった。

ふらふらと導かれるままに付いていってしまったのが運の尽きだった。二日続けてのトンコツらぁ麺。

しかし、味玉だるまらぁ麺は旨かった。素麺かと思うほど細い麺。絡み付く工芸品。薄味で背油が少なく、西洋のスープのような淡白さでしかし芳醇。

あの麺と汁が繰り出す空間に「舞踏への勧誘」という曲を思い出したのだけれど、今朝のザムザは豚の骨と化していて、とうていワルツなど舞うことは出来なかった。
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by k_hankichi | 2014-07-29 07:32 | 食べ物 | Trackback | Comments(0)
『もしドラ』どころではない目の覚めるような黎明の書・・・『憲法主義』(内山奈月、南野森)
日曜日の天声人語に、憲法学者の南野森がAKB48の内山奈月に日本国憲法を講義した議事録が本になっていることが紹介されていて、すぐに買い求め、一気に読んでしまった。『憲法主義 条文には書かれていない本質』(内山奈月、南野森、PHP研究所)。→http://www.php.co.jp/kenposyugi/

法学を学んだことがなく政治にも疎い僕にとって、何度も目から鱗が落ちる、物凄くわかりやすい憲法解釈書だった。第1講「憲法とは何か?」、第2講「人権と立憲主義」、第3講「国民主権と選挙」、第4講「内閣と違憲審査制」、第5講「憲法の変化と未来」から構成される。

「憲法は誰を対象にしているのか」という質問が途中に出てくる。その答えは「国民」ではなく「国家権力(者)」であるということも初めて理解できた。憲法を守らなければならないのは国家権力であって、われわれ一般人、国民は法律を守らなければならないのだ。国民は憲法によって守られる存在であって、憲法によって縛られる存在ではない。

集団的自衛権の行使の件についても、憲法改正を経ずに解釈の変更(解釈改憲)でもって進めていこうとする危険性について、ようやっと腹落ちした。それをいったん許し始めたら、憲法の拘束力そのものが弱まっていくことになる。つまり、国家権力を縛り切れなくなり暴走が始まるのだ。

それにしても、これらの講義のなか、先生の質問に的確にこたえていく内山さんの秀才ぶりには驚愕した。講義時は高校3年生だった内山さんは、日本国憲法の全文をほぼ暗記していて、どの条項に何が記載されているかを即座に応えることができているのだけれど、単に暗記しているだけではなく、自分自身できちんとした解釈が出来ている。僕などには及びもつかぬ俊敏なキレがある。(彼女は現在、慶應義塾大学の経済学部1年生だという)。この先、彼女はアイドルを終えたあと、有能な社会人(あるいは政治家か)になっていくだろうことを予感させた。

本の売り文句には、『もしも国民的アイドルが、日本国憲法を本気で学んだら......。』という、『もしドラ』の二番煎じ的な説明があるのだけれど、僕にとってはそれどころではない目の覚めるような黎明の書だった。

■南野准教授による内山さんへの講義の様子 →http://youtu.be/azhGeAGWcF0
  

憲法主義:条文には書かれていない本質

内山 奈月 / PHP研究所

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by k_hankichi | 2014-07-28 00:11 | | Trackback | Comments(4)
自分たちさえ良ければという人類を戒める『精霊の木』(上橋菜穂子))
先週テレビを観ていて、国際アンデルセン賞(Hans Christian Andersen Awards)・作家賞を上橋菜穂子さんという作家が受賞されたことを知った。優秀な児童文学作家1名が2年に1度選ばれるという国際的な賞で「小さなノーベル賞」とも呼ばれるそう。
→http://www.ibby.org/index.php?id=1352

児童書というと僕にもとっても深い思い出があり、それがあって今の自分だともいえる。だからどうしても読みたくなった。銀座の教文館の古いエレベータを上がると児童書だけのフロアがあり、そこで本を探した。『精霊の守り人』シリーズから読み進めるのが本流らしいが、僕は敢えて彼女の処女作を手にした。そして先ほど読み終えたのが『精霊の木』(偕成社)だ。

この小説は本当に素晴らしかった。そして考えさせられた。

人類は、環境破壊で地球をもはや住めない状態にさせてしまった。そこでさまざまな星への移住をしていく。移住できたのは、地球を滅ぼした原因をつくったいわゆる先進国の、それも富裕な人々だったという。

移住した先の星には、先住民がいた。その異星人たちを、人類は巧妙な手練手管で操り、自ら滅びたかのごとく導いていく。

ナイラ星の場合もそうだった。ロシュナールという原始的な先住民がいた。彼らは慎ましく、そして優しさに満ち溢れた、いわば人類が失ってしまった感性に包まれて暮らしていた。彼らの生き甲斐のひとつは「精霊」であり、民族の歴史を何代も何代も大切に受け継いでいく。人類は、そういう彼らを心理的にゆっくりと滅びていくように陰で操作していく。

そんなロシュナール族の「精霊」の言葉は、アガー・トゥー・ナール<時の夢見師>という語り部が伝えていた。彼女は夢の中で時を旅し、自分が生まれる前の時代へゆき精霊を得る。未来を夢見るのではなく、過去を夢見、自分たちがどのようにすべきなのかを導いていく。

現代の(というか小説のなかでは1000年ほど未来だが)アガー・トゥー・ナールとして浮かび上がってきたのがリシアであり、環境調整局は、その不思議な力を解明しようと、彼女を生け捕りにしようと躍起になる。

人類は、汚染をまき散らす一方で、環境を制御できていると嘯(うそぶ)き、都合が悪くなれば、劣者は放置して、次の土地に(この小説では別の惑星に)移住して、そこでも同じようなことを突き進めていく。

思い起こせば、これは、西欧の人々が南北アメリカ大陸に渡っておこなってきたこと、そのものではないのか、と思った。先住民を狡猾に騙し懐柔し、自分たちの思うがままに操り、都合のよいように仕向けていく。

そしてそれは、西欧に限らず世界中のどこでもそうなのだ。東洋でも、そして中東のパレスチナ自治区でも、そして、極東の国に於いてでも(「状況は制御できている」とその国の首相は言った)。

■ボローニャ国際児童図書展2014の紹介 →http://youtu.be/I-j_TXQBjFw

精霊の木

上橋 菜穂子 / 偕成社

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by k_hankichi | 2014-07-27 10:30 | | Trackback | Comments(2)
男と男の洒脱・・・『ジゴロ・イン・ニューヨーク』
金曜日の夕刊に映画評が掲載されていて、気になって観にいってしまった。『ジゴロ・イン・ニューヨーク』(原題:Fading Gigolo、2013年、米国)。→http://gigolo.gaga.ne.jp/

哀愁に満ちた大人の男のコメディだった。

ストーリーは、営んでい本屋を潰してしまったマレー(ウディ・アレン)が、幼友達で花屋でアルバイトをするフィオラヴァンテ(ジョン・タトゥーロ)に、この窮状から脱出するために、新しいビジネスを提案ことから始まる。フィオラバンテにジゴロをやれというのだ。

マレーは、かかりつけの女医Dr.パーカー(シャロン・ストーン)のもとに、フィオラバンテを送り込み、成功を収め、次々に客をとらせていく。フィオラバンテの人気は絶頂となる。そんななか、彼はユダヤ教の厳格な宗派のラビの未亡人アヴィガル(ヴァネッサ・パラディ)を紹介される。会話を重ねていくうちに二人は心を寄せ始め、たがいに禁じられた思慕の念を深めていく。

僕はこのジョン・タトゥーロという男がいっぺんに好きになった。特に、ウディ・アレンがしかけるダジャレのような話に対しても真面目な顔で応対するその表情。そしてまた、女を前にしたときの、ちょっと切なそうで諦めとも哀しみともつかぬ雰囲気がたまらない。

バックに流れるジャズ、そして、ヴァネッサ・パラディの歌声が、マンハッタンの街角にいつまでもこだまする。

■オフィシャル・トレイラー+ヴァネッサ・パラディの歌声→http://youtu.be/s8RRJ1momek
  
■映画『卒業』のワンシーンを思い出させる画面の構図 →http://youtu.be/v4VOsAGP_js

■サウンドトラック →http://youtu.be/tABxXU-hd2w
  
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by k_hankichi | 2014-07-26 17:20 | 映画 | Trackback | Comments(0)
帽子と短パン
帽子が似合う人が羨ましい。そういう人は少し斜にかぶったり、前深にかぶったりしても格好が良く、誂えたものなのかとさえ思ってしまう。

僕はといえば、野球帽、ハンチング、麦わら帽子、カウボーイハット、などなど、どんな被り物も似合わない。何故なの?と頭を傾げる。

そんななか、先週から今週は短パンが、再び悩みの種となった。

ジーパン地、紺色のコットン、木綿の薄手の白地、長さの長短。どれを試しても様にならない。

何故なの?

家に帰ってテレビを観ていたら全英オープンゴルフが中継されていて、ああ~っ、と言葉にならない声が出た。観客の英国人、誰もが短パン。

それぞれが実に様になっている。うぐぐと唸った。二の句が継げなくなった。そして分かった。

決め手は足の長さなのだ。

じゃあ帽子は何が決め手なの。

だんだんわからなくなってきました。
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by k_hankichi | 2014-07-25 00:14 | 街角・風物 | Trackback | Comments(0)
だから目覚めは理髪店なんだ、とは恥ずかしくて、とても言い出せなかった
幼少の頃に暮らした街がふるさとだなあと、思い返すことがある。僕にとってはそこは東京の西のほうにある新興住宅地で、北多摩郡に属していた。

村ではないけれども、西武バスや小田急バスが狭い街道を走り、太宰治が身を投げた上水が近くを流れ、多摩湖から引かれた、これまた水道用の道路がそこに交差する。

なかでもその町の商店街は忘れることはない。

一番角が丸美屋酒店とかいう名の食品雑貨屋、隣は米屋だ。米屋は精米機が年がら年中がーがーワンワンと唸っていてその穴蔵のような店の奥のことがおっかなかった。米穀通帳というのを使って買うのよ、と母親から教えられた。

丸美屋の対面はプラモデル屋だ。ハセガワの1/72スケールのジェット機モデルや1/700のウォーターラインシリーズ、今井科学のサンダーバードシリーズに取り憑かれた。

ここまで書いて、ようやっと本題の理髪店になる。恥ずかしいから紛らわしているのだ。

プラモデル屋から向かって二軒ほど右隣がその店だった。

そこで僕は母親以外の若い女の人というものが魔法のような雰囲気を持っていることを初めて知った。

その女性は中卒か高卒の見習いだった。いつもの理容師のおじさんの他に、彼女が修行に入っていることには直ぐに気づいた。思い返せば少し後のひし美ゆり子に似ていた。

頭を触られ、髪を刈られたり洗髪されたりしているだけで、ぽーっとなり、なにか綿菓子のような柔らかいもので撫で付けられ、頭のみが雲の上に昇っているような感覚になっていた。陶酔?

思い起こせばそれが目覚め、だったのではないかと思う。小学校一年生だった。

気が遠くなるような心地よさにおおわれて、髪を刈られたあと、ふらふらしながら椅子から床に足を着く。マルカワの4玉入りフーセンガムをおまけに貰いながら、最後の仕上げ的に、頭から肩にかけて刷毛で髪の毛の切れ端を払い落とされるところでは、もう一度椅子に座って面倒を見てもらいたかった。後ろ髪を引かれた。

それから商店街に行く度に、理髪店のことを反対側の米屋側から眺めた。 精米機のことは怖くなくなっていた。

学校帰りに、用もないのに理髪店の前をゆっくり歩きながらウィンドウを通して店の中を覗いた。理髪店の店主が何か良からぬことを仕掛けていないか、そんな胸騒ぎがして、守りに行く気概だった。

だから大人になってずいぶんしたあとに、パトリス・ルコント監督の『髪結いの亭主』を観たとき、主人公の男が僕であると即座に悟った。

目覚めは理髪店なんだ、とは恥ずかしくて、とても言い出せなかったけれど、商店街のことを思い出すと、全ての記憶がそこに向かってゆく。
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by k_hankichi | 2014-07-24 06:01 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)
青山真治が未来に届けたい一篇の小説
雑誌『新潮』の6月号は、創刊110周年記念特大号と銘打って、「今日から始まる文芸の未来」という副題がついている。なかでも「未来に届けたい一篇の小説」というコーナーで、青山真治が書いた次の文章を読んで、自分の気持ちと同じでとても嬉しくなった。

“舞台を金沢と言っていいものかどうか。他の作品における東京を現実とするといささか事情を異にする気がする。一応、内山という男の行動を追う緻密な描写があり、そこに骨董屋と呼ばれるメフィストフェレスのようなガイドがいて、金沢近郊に住まう様々な人々との遊行が綴られるのだが、どうも金沢の街こそが主人公のように思われてその鯨のような主人公の背中の上で酒を酌み交わしながらそれらの人物たちと問答を交わすのが大体の内容なのだが、『白鯨』同様これは一種の哲学小説、哲学という言葉が不味ければエチカ、エチケットについての小説と呼ぶべきかもしれない。”

もちろん、吉田健一の『金沢』を選んだものだ。

このあとに次の文章が続いていって、これまた作家の世界観をよく捉えたものだから、ますます嬉しくなってしまう。

“昨今流行語の「おもてなし」が気に入らない理由にこのエチケットがどうも感じられないということがある。立つ時、座る時、襖を開ける時、閉ざす時、迷路のような道を歩く時、水に反射する月影を見る時、畳に横たわる時、などなど、あらゆる<時間>それぞれに相応しいエチケットが峻然と存在することを人々との謎かけのような問答によって内山は明らかにしていく。”

僕の友人は、かつてこの地に住んだことがある。そのことだけでも羨ましいのに、近々また再訪するらしい。青山氏の一節に触れて、この羨ましさは何乗にも増えて留まることがない。

新潮 2014年 06月号 [雑誌]

新潮社

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by k_hankichi | 2014-07-23 00:28 | | Trackback | Comments(2)
梅雨明けの昔と今
子供のころ「梅雨明け」というのは、とにもかくにも嬉しく、閉塞していた日々が解き放たれ、ミンミン蝉の残響が校庭やプール周り、雑木林のくぬぎの木々に谺しはじめるのが快かった。

さあもうじき夏休みだ、という期待感に満ち溢れる。もちろん、小学生にとっては「夏休みの計画」なるものを作りなさいと言われていつも困ったのだが、それは毎日が退屈だからではなく、途方もなくおおきすぎる量塊で、前年のことを思い出しても、それは気が遠くなるほど幸せな期間で、その感銘がまた来るかと思うとそれだけで胸がいっぱいになるという種類の困惑だからなのだ。

長い休みについてどう計画して書き込んで良いのかわからぬ幸せなんて、社会人になってからは味わったことがない。だから今日、梅雨が明けたと聞いて、これからの暑く蒸す毎日を思い、それだけで嫌になってしまう。

むかしの梅雨明けと、今の梅雨明け。こんなにも違ったのだなぁとつくづく思う、今宵の蒸し暑さだった。
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by k_hankichi | 2014-07-22 22:10 | 街角・風物 | Trackback | Comments(0)