音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です

by はんきち

<   2013年 04月 ( 32 )   > この月の画像一覧

「昭和の日」は、新宿副都心まで所用で出かけた。ホームから西口地下広場まで降り、そこから自動車ロータリーに沿って大きく円を描くように歩く。スバルビルの地下の、ウジャト/ホルスの眼(Udjat/Eye of Horus)の横を通るのが苦手だ。「新宿の目」と書かれているのだけれど、これは古代エジプトの「ラーの右目(太陽の象徴)」なのであるから、その前で審判を受けるようで気が気でない。

そのあとは都庁や住友生命ビルに向かう長い通路。横には、路上生活者の侵入を阻むいろいろな柵があり、柱と柱の間には、てっぺんを斜めにカットした太い杭のオブジェが並ぶ(もちろんこれも、上に座ることができないようにしたものだ)。この光景を見るたびに、「一方的なる勝手なる理不尽さ」というような量塊におしつぶされそうになる。

目指すビルに入れども、行先の区画に一回で到達できたことはなく、地上と地下の間を何回か往復して、結局はとても簡単な入口であったりしてがっかりする。西口のどのビルも都庁を除けば、ある程度の年季が入っており、施設の老朽は表から見えないところに存在していて、あの一世を風靡した鉄道系ホテルチェーンに入ると感じる、楽屋裏を間違って覗いてしまったような気分に陥る。

この迷宮に入り込んだような、ばつの悪い感覚は、いつになっても取り去ることができず、だから僕にとって、新宿副都心は、永久に苦手なのだ。

やっぱりここは、昭和絶頂期の、映画「野良猫ロック」シリーズや、テレビドラマ「太陽にほえろ!」の初期の、高層ホテルがただ一棟だけある風景までが、僕の心にあっている。

図らずも、そんな昭和を思い出す日になった。

「新宿の目」はココ→http://youtu.be/KElqzMaNy10


[PR]
by k_hankichi | 2013-04-30 00:04 | 街角・風物 | Trackback | Comments(10)
『吉田健一 対談集成』(講談社文芸文庫)は、あっという間に読めてしまった。これは、対談ではなくて、酔談で、相手の質問に真正面から答えないわ、かわすわ、はぐらかすわで、これはいったいどういうことだろうと思った。

あの、著作集にあるような、吉田節が聞こえない。小説や論説、エッセイにおける書き言葉の吉田さんと、ここでの話し言葉の吉田さんには大きなギャップがある。

読んでいるうちに、ああ、もしかして・・・、と思った。恥ずかしいのである。この人は、人に本当のことを語るのが、実に恥ずかしいのである。

巻末に、長谷川郁夫が解説を書いていて、そのなかで、次のようにあった。

「吉田さんは、どうやら講演や対談を苦手とした、というより苦痛としたようだ。論戦を好まない、理詰めで窮屈な話題は敬遠したい。」

なるほど。彼には物事の本質が見えすぎていて、だからどうにも、酔った席においても、まじめな話をざっくばらんに、ということがむつかしかったのだな、と思った。小林秀雄よりも、河上徹太郎と仲がよくなったことも、そういう感性的な理由があるのかもしれない。

ところで、解説のなかでは、もうひとつ面白いことが書かれていた。柴田光滋という新潮社で吉田さんを担当していた人が、吉田さんの文章の特徴について、次のように洞察していたそうだ。

「『シェリイがシェリイといふものである以上』でもわかるように、その要諦は同義反復。『バタはバタの味がした』なんて具合に書く。問題は事の本質だけ。文章を書く上での禁じ手ではあるけれど、ただ一人、吉田健一においてのみ奇跡的に可能だった。」

おお~、核心を突くなあ!

吉田健一対談集成 (講談社文芸文庫)

吉田 健一 / 講談社

スコア:


[PR]
by k_hankichi | 2013-04-29 17:06 | | Trackback | Comments(4)
今朝の夢は、露天商が文章を売っているというものだった。

縁日でよくある平台のうえに、玩具やら、ハッカが入った子供タバコやら、子供手品の道具(指になすり付けて親指と人差し指をくっ付けて離すと煙が出るやつとか)を並べて売っている、というようなものではなく、しかも文章といっても、eメールで使う文(や表現)のパーツ・切れ端が並んでいるというものだ。

それらは、なぜだか魚の切り身だとか、鶏のもも肉の燻製、ハム、ベーコンの塊、悪くなりかけた古い魚(鯵)、果物、魚卵、レバーなどの見かけをしている。

これがeメールの材料なのですか?と問うと、露天商は云う。

「このそれぞれは、見かけは食いもんの形をしてるけど、それぞれに意味と文章を内包してらあ。ある日ある時あるタイミングで、eメールのなかで使うと、適切に伝わる内容が入ってらあ。文章ってえものは、巧拙が出る。巧拙は、内容だけかというとそうじゃあない。伝える相手、背景、状況、これまでの経緯、こちらの立場、双方の気持ちなどに応じて、いかにきちんと言葉を選んで、そしてそれによって、相手に伝わるかかということさ。」

「活きの良い切り身が旨いわけじゃあなく、燻した塊のほうが良く相手に伝わる場合もあらあ。悪くなりかけの魚でも立派に機能する場合さえあるよ。」

おお、つまり、“伝わったこと”、が“伝えたこと”だ。伝えたという自分の満足ではなく、伝わったという相手の真実が大切であるということか。

「相手と時と場合に応じて、きちんとよく吟味して選べよ、あんちゃん。」

屋台につるされた白熱電球が夜の闇に輝いて、いつまでもいつまでも揺れていた。
[PR]
by k_hankichi | 2013-04-29 08:34 | 夢物語 | Trackback | Comments(2)
疲れた頭で茫洋としている瞬間や、はっとするほどの美しさに出会った瞬間に、いろいろな想い、それは記憶とも空想ともいえる内容なのだが、それが頭のなかをゆっくりと駆け巡り、しばしその世界に浸ってしまっていて、しばらくしてようやっと我に返ることがある。

そういった時間のことを、ゆっくりと辿るように、行きつ戻りつするように表現することが上手いのが堀江敏幸で、それを味わうことができる『アイロンと朝の詩人 回送電車Ⅲ』(中公文庫)は楽しかった。

眼前の風景が失せ空想に浸るときの心地よさは、表題作の小篇がやはり秀逸で、フランス語の教室で、教え子が「彼女はスラックスのうえを行ったり来たりする」という意味の言葉を発したところから、そうなってゆく。

「ファラオの呪いが町田まで」という小篇も、疲労困憊した男が朦朧としたなか、行く先を定めぬままさすらう旅の話だ。狛江で適当に選んだ路線バスに揺られて、武蔵境、高尾山、相模湖、橋本、そして町田と乗り継ぐさまは、もう得も言われぬ夢の中の話のようで、ぼくは深く心地よいため息をついた。

アイロンと朝の詩人 回送電車III (中公文庫)

堀江 敏幸 / 中央公論新社

スコア:


[PR]
by k_hankichi | 2013-04-28 09:05 | | Trackback | Comments(1)
谷根千の締めくくりは、地獄の天国。

池之端の不忍池のタワーマンション(友人が似ている映画俳優が住んでいる)の裏に、ひっそりと隠れるように、それはあった。

台東区公衆浴場・六龍鉱泉。ココ→http://www.yunokuni.com/tokyo/vol10/next01.html

れっきとした温泉である。1931年(昭和6年)の開業以来おなじ建物だということだけれども、古臭さは感じない。それはどうしてかと考えたら、僕が子供の時に行っていた銭湯のその雰囲気と同じで、ああ見慣れた風景だなと即座に馴染んだからだろう。壁絵はお決まりの富士山ではなくて渡月橋。これは珍しい。

さて、そのお風呂。湯船の湯は、ブラックコーヒーのように黒い。泡がぶくぶく出ている大きめの浴槽と、その隣は小さめで泡無しだ。

泡の出ているほうに身体を沈めた。

おっ、おっそろしく熱い。じ・・・地獄。。。45度くらいはありそうだ。入っているあいだじゅう、「う~」「おう~」「えう~」という声を発してしまう。

うー、堪えられん。隣の湯船で、身体を冷やそう!

そう思って、隣に移ろうとし、指先で温度を確かめた瞬間、熱っつ・・・!! 何だこれは?冷たいやつではないのか?

湯船に挿し込んである温度計を見ると、なんと46度。何回も見返してしまった。いったいどうなってるんだ・・・。

再度、温めの(とはいえ45度!はある)主浴槽に入りなおした。だんだんと体は馴染んでいく。拷問であることには変わりはないが、我慢することが大切、と思いこむことにして、江戸の掟に従った。

時とともに、地獄のなかで気が遠くなるような気がし、しかしやがて、そこは楽天に変わっていった。

江戸っ子の風呂の神髄を、初めて実感した夕方。その空は、なにかとっても青々として美しかった。

c0193136_2182831.jpg
c0193136_2031746.jpg

[PR]
by k_hankichi | 2013-04-27 21:00 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)
友人から以前教わった、不忍ブックストリートの一箱古本市にでかけた。

西日暮里から諏訪神社を経て、富士見坂を行きつ戻りつ谷中銀座に。古書信天翁(あほうどり)は開店前で少し気落ち。不忍通りの古書ほうろうまで下るとそこは盛況。

裏道に入る。旧安田楠雄邸は料金に躊躇い、家の前だけを冷やかすだけにし、森鴎外記念館に。鴎外の自宅「観潮楼」の跡地に昨年末に建てられた素晴らしい設計の建物で、中に入ってみると、未来から明治につながるタイムトンネルのような感覚におちいる。

館から外に出てみれば鴎外が上野を見渡した方角に東京スカイツリーがぽっかりと浮かび、過去と現代の地図が重なる。

通りに戻り、往来堂書店の箱市で吉田健一と田村隆一の古本を破格で手に入れ、猫八カフェのハイボールで喉を潤す。

根津神社はつつじまつり。境内では高齢の叔母さまたちが、なぎなたの模範演技。凛としているのだが、どこか貪欲な動物のように思えて怖く、満開のつつじを目前にして退散。

しかし谷根千の人出はあまりに凄い。どこから沸いてくるのかこんな狭い路地の隅々まで侵入してしまう人々のなかの一人が僕で、だから国境侵犯者のような気分になり、ちょうど目の前に現れた串揚げ居酒屋に身を潜めた。

二杯目、三杯目のハイボールによる昼下がりは、昭和50年代にワープしてあまりに心地よく、今日は何時に家に帰り着けるのか分からなくなった。

c0193136_2011682.jpg
c0193136_20121940.jpg
c0193136_20132238.jpg
c0193136_20142892.jpg
c0193136_20182090.jpg

[PR]
by k_hankichi | 2013-04-27 15:21 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)
ここ数日、連休前の駆け込みのような会議が続いている。いささか疲れ果てた。

しかしへこたれてはならぬ、これくらいのことで弱音を吐いてはならぬ、と思い直すことたびたびである。

そして最近必ず、ある言葉が浮かんでくるようになった。

「現状打破」。

先週観たBS-TBSの番組、『裸のアスリート・・・男子マラソンの変革者・川内優輝』(4月20日)で、川内が、何度も何度も、自分に言い聞かせた言葉だ。

それが、沸き上がってくる。

彼は「常識を疑え」、ともいう。アフリカのエチオピアの選手たちは、子供のころから、丘陵のアップダウンを毎日走破しているわけだから、彼らに勝つにはその上をゆかねばならない。

だから、マラソンランナーとして禁じ手にちかい、山登り下りランニングということを敢行しつづける。禁じ手を逆手にとったものだ。

「挑戦する心」でもって、可能性に挑戦しつづける川内。不屈の精神力で逆境をも自分の力にしようとする意志。

スポーツのドキュメンタリーを観て、初めて泣いてしまった自分のあの感銘を忘れぬように、慌ただしくも挑戦的に、日々に対していきたい。

追伸:
今日のニュースで、世界陸上/男子マラソン代表に彼が内定したと報じられた。篤いエールを送りたい。

■Youtubeから→http://youtu.be/2QY6VAnspvg

[PR]
by k_hankichi | 2013-04-26 07:35 | 社会 | Trackback | Comments(0)

巡礼による浄化と救済

あの書は、やはりしばし人に考えを深めさせるものがある。

つまるところ、「自責にせよ他責にせよ、心に刻まれた痛手や傷は、巡礼という手順をゆっくりと踏むことでしか、浄化救済そして癒し再生されない」ということか。

仕事で旅する友人が、バッハのマタイ受難曲を携えていったことにも合点がゆくし、自分も、何故か無性にレクイエムを欲したことも腑に落ちる。

村上春樹の新作を読んだ読者は、自己との対話を始めざるを得なくなるのではないか。

そして僕もいま、通勤途中の車内で、クレンペラー指揮のマタイ受難曲を聴いている。

バッハ:マタイ受難曲

クレンペラー(オットー) / EMIミュージック・ジャパン

スコア:


[PR]
by k_hankichi | 2013-04-25 07:41 | | Trackback | Comments(2)
友人と村上春樹の新作『色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年』について考えをやりとりしていた。

僕は「救われない過去の元凶、そういう心の原風景に時が経つにつれて気付いてゆく融解のような書」。

彼は「村上春樹特有の『喪失と再生の物語』の一番新しい形、すなわち、もう一度過去を作り直す、未来に向かって歩くために過去に向き合う」。

そんななか、今朝の朝日新聞では、作家の松浦寿輝が次のように解釈していて、深く同感した。

「わたしたちは誰しも、傷口が一応ふさがったかに見えても、しかし本当には決して癒えることのない傷を一つや二つ、記憶のどこかに隠しもっているものだ。そうした体験をこんなふうに静かに、しかし鮮烈に描きだしている小説は案外少ないのではないか。この静謐と鮮烈を得るために、文体や物語展開の村上流の不自然と作為性はむしろ不可欠なのかもしれない。」
[PR]
by k_hankichi | 2013-04-24 06:38 | | Trackback | Comments(2)
一日一日、あたらしい日を迎えるにあたり、その日その季節に由縁するものごとだとか、ことばの由来、言い伝えなどを知ることは楽しい。

『ことばの歳時記』(金田一春彦、新潮文庫)は、まさにそういう本で、いつも鞄に入れとおいて、さて今日はどんな日だっけ、と大事にページを繰るのに良い。

今日は23日。『菜の花』と題した記載で、「いちめんのなのはな」という山村暮鳥の詩(風景)というものを紹介している。また、秋田県と岩手県の境のあたりでは、菜の花は「まっさおに咲く」と表現されるそうで、それはむかしはアオという言葉は、「はっきりしない中途半端な色」という意味があった名残だとしている。

アオははっきりしない中途半端というようなものだ、と知っていたならば、村上春樹の小説の「多崎つくる」も、あれほどまでに悩むことはなかったのじゃあないか君、と思った。

「色なんてものにとらわれちゃあいけない、セザンヌのデッサンを観てみなさい、一日の仕事に疲れ果てた農婦たちの団子っ鼻がいかに汗光りしているかがわかる。色っていうのはね、それがあると思い込むからいけないんだ。あるって思っているそういう先入観がその絵のなかにある真実を理解する邪魔をするんだな。」と、小林秀雄なら言ったかもしれない。

ことばの歳時記 (新潮文庫)

金田一 春彦 / 新潮社

スコア:


[PR]
by k_hankichi | 2013-04-23 07:31 | | Trackback | Comments(2)