音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です

by はんきち

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暮れも大晦日。今年こころに強く残った音楽、小説、酒、映画、TVドラマのそれぞれベスト3をここにまとめます。

■音楽
1. 庄司紗矢香のバッハとレーガー
曖昧なことをしていてはいけない、きちんと生きなければいけないと魂をゆさぶりかける、その峻厳な孤高の極み。
・収録曲:
 1)マックス・レーガー:プレリュードとフーガ in G minor Op.117 No.2
 2)J. S. バッハ:無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番 in G minor BWV1001
 3)レーガー:プレリュードとフーガ in B minor Op.117 No.1
 4)J.S. バッハ:無伴奏ヴァイオリンパルティータ第1番 in G minor BWV1002
 5)レーガー:シャコンヌ in G minor Op.117 No.4
 6)J.S. バッハ:無伴奏ヴァイオリンパルティ―タ第2番 in D minor BVW 1004
・演奏:庄司紗矢香
・録音:2010.8.28, 31 @Chapelle de I’Enfant Jesus par Hugues Deschaux
・音盤:仏Mirare MIR128

2.オーケストラ・フィルハーモニカ・アルペ・アドリアによるペルゴレージのスターバト・マーテル
ペルゴレージが生まれたアドリア海にある演奏家たちが、彼の音楽のなかにある鄙びた空気と純真さ、そして柔らかい陽射しを伝えてくれる。
・収録曲:
 -ペルゴレージ/スターバト・マーテル
・演奏:
 -マリアンナ・プリッツォン(ソプラノ)
 -エレーナ・ボスカロル(メゾソプラノ)
 -ボデチャ・ネジャ女声合唱団
 -アルペ・アドリア・フィルハーモニー管弦楽団
 -ルイジ・ピストーレ(指揮)
・録音:2010年12月12日、ゴリツィア(イタリア)、フリウラーナ文化ホール、ライヴ
・音盤:イタリアVELUT LUNA、CVLD 219

3.イザベル・ファウスト/ダニエル・ハーディングのブラームスのヴァイオリン協奏曲
イザベルの凄みと溌剌さ、ワルターの響きを再現したかのハーディングに感服。
・収録曲:
 1)ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77
 2)同:弦楽六重奏曲 第2番 ト長調 Op.36
・演奏
1)イザベル・ファウスト(Vn)、ダニエル・ハーディング指揮/マーラー・チェンバー・オーケストラ
 2)イザベル・ファウスト(Vn)、ユリア=マリア・クレッツ(Vn)、ステファン・フェーラント、ポーリーヌ・ザクセ(Va)、クリストフ・リヒター、シェニア・ヤンコヴィチ(Vc)
・録音:2010年2月 ソシエダ・フィラルモニカ [1]/2010年9月 テルデックス・スタジオ [2]
・音盤:HMC-902075(ハルモニア・ムンディ)

■小説
1.『火山のもとに』(松家仁之、新潮社)
ストーリーと並行して、自分のなかに忘れていたとても大切な記憶が、すこしづつ滲みだしてくるが、それに気づかずにそのまましまっておきたくなる気分に包まれる小説。

2. 『楽園のカンヴァス』(原田マハ著、新潮社)
この小説には、通奏低音のように大切なメッセージが流れている。それは、『夢』であり、『夢を信じて生きる』ということの大切さと強さだ。

3.『埋れ木』(吉田健一、河出文庫)
吉田健一の最後の小説。いつものように何も起こらないが、この感覚は凄いし堪らない。

■酒
ことしも、ワイン、シャンパンなども含めて沢山の良い酒に出会いました。そのなかで、選ぶことを考えていたら、なぜか三つとも蒸留酒になりました。

1.ボタニスト
友人と銀座で初めて飲んだイギリスのアイラ島のドライ・ジン。アイラ島で取れた22種類を含む31種類のハーブ、スパイスなどのボタニカルをたくさん使っている。ローモンドスティル(ネック部分が円筒形、たくさんの穴が空いた3段の仕切り板がついている)という特殊蒸留器で3回蒸留。味は思いのほか淡白だけれども、そのなかの香草の味と香りを微妙に嗅ぎわけるにはもっと修行が必要だ。ボトルが格好よく、それだけで高級なる特別なものを飲んでいるような気分になれる。

2. テスコ(TESCO)のシングルモルト・ウイスキー(12年物)
近所にある英国系のスーパーマーケットで手に入る、同社ブランドのスペイサイドだ。そしてシングルモルトの12年物なのに、おっそろしく安い(とうとう1238円になった)。手を抜かぬ英国魂の仕上げで、もうもろ手を挙げて喜ぶしかない。このスーパーは来年、日本からの撤退をするような動きを見せているので、思い切って6本ほど買い溜めした。追加補充はできないということで、店からは、この酒は姿を消してしまった。

3.ガオリャン
コーリャンの蒸留酒で52~53度。白酒[パイチュウ]ともいう。中国出張でさんざん飲み、意識が飛ぶということを2回ほど経験した。しかし、だからもう金輪際飲みたくない、というのではなく、こんな旨い酒はめったに飲めないから、これからも機会があれば親しみたいと思うのがダブル吉田派(吉田健一、吉田類)の僕である。

■映画
1.『浮草』
小津安二郎が大映で撮った唯一の映画(1959年、カラー)。うらぶれた旅芸人一家の悲哀。とてつもないリアリズムだ。極めつけは、雨に濡れる深紅の葉鶏頭の花が予兆をさせる、土砂降りのなか、道を隔てて睨みあう駒十郎(二代目中村鴈治郎)とすみ子(京マチ子)の罵り合い。映画史に残る雨の中の名シーンだと思う。若尾文子の美しさにも、しばし口が開いたままになる。

2. 『ミラノ、愛に生きる』
ルカ・グァダニーノ監督、ティルダ・スゥインストン主演、2009年イタリア映画。心情が映像で表現されてゆく。普通であれば取るに足りない空間、空や草木、虫、料理の盛り付けの中に光る海老、唇を捉え、孤独感、眩しさ、儚さ、追憶、官能を描写する。

3. 『ALWAYS 三丁目の夕日'64』
山崎貴監督、出演:吉岡秀隆、堀北真希、堤真一、薬師丸ひろ子、小雪、2012年、東宝。基本的にこのシリーズが好きで、僕にとっての昭和のあのころのこと、幾つかのシーンが重なるように思い出される。高層ビルが無い東京を照らす夕日の美しいことよ。

■TVドラマ
今年はTVドラマの当たり年ではなかったようだ。しかし、そのなかで選んでみると次のようになる。

1.『運命の人』(TBS)
真木よう子の、うつろうような眼差しやその演技が光った。

2. 『もう一度君に、プロポーズ』(TBS)
和久井映見を観続けていられるだけで、嬉しい。

3.『純と愛』(NHK、現在放映中)
風間俊介の暗い演技が秀逸。彼は後半のドラマのなかで何をしていくだろうか。

来年も、どうぞよろしくお願いします。
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by k_hankichi | 2012-12-31 15:10 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)
昨日は神保町で友人と久々に忘年会。沖縄もち豚料理とクースーに舌鼓を打った。カボチャを煮たものに豚バラ肉を巻いた串焼きや、もち豚餃子、豆腐ようは特に旨く、酒が進む。うみぶどうはやはり食感が良く、箸休めにちょうど良い。店に揃えてあるクースーを端から一杯ずつ飲みつくしたころに、いつもの二次会の店に向かう。

カルチェラタン系のバーのようなビストロのようなその店は、照明がほの暗く、欧州の雰囲気そのものだ。そして更に、マスターがクラシック音楽好き故に、特に音響が良い。なんでも、スピーカーコードを銀線(メーター8000円らしい)にして、格段に良くなったとのこと。

お願いして、昼間に御茶ノ水で仕入れた音盤をかけてもらった。オーケストラ・フィルハーモニカ・アルペ・アドリアによるペルゴレージのスターバト・マーテル。指揮はルイジ・ピストーレ、ソプラノ:マリアンナ・プリツォン、メゾ・ソプラノ:エレーナ・ボスカロル。2010年12月のライヴ録音。

とても禁欲的な、抑制がきいた、気負いのない演奏だ。イタリアの小さな田舎町にある教会のミサに、ふと迷い込んでしまったような感覚に陥る。

オーケストラは時折、はたとするほど鄙びた音を出して、その旋律に合わせて僕は静かに呼吸をしてゆく。静かな吐息をみながついていることが分かる。

この演奏はイタリアのスロヴェニア国境に近いフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州(州都トリエステ)の、アドリア海の付け根の町ゴリツィアの合唱団と管弦楽団だそうだ。おなじアドリア海を臨むマルケ州の海沿いの町イエージに、ペルゴレージは1710年1月4日に生まれた。そしてこの曲を書いてまもなく 1736年3月17日に息を引き取った。享年26歳。アドリアの海というのは、僕は見たことがないのだけれど、おそらく、この音楽のなかにある鄙びた空気と柔らかい太陽がそこにあるのに違いないと思う。

思い出してみれば、初めてこの店を訪れたときも、ペルゴレージのスターバト・マーテルが掛かっていた(モントリオール・シンフォニエッタによる素晴らしい演奏)。

いつもこの店に来ると心が綺麗になる。

こんな美しいものを皆が大切にしていれば、きっと良い年がくるだろう、と思った。

音盤:イタリアVELUT LUNA、CVLD 219
マリアンナ・プリッツォン(ソプラノ)
エレーナ・ボスカロル(メゾソプラノ)
ボデチャ・ネジャ女声合唱団
アルペ・アドリア・フィルハーモニー管弦楽団
ルイジ・ピストーレ(指揮)
録音:2010年12月12日、ゴリツィア(イタリア)、フリウラーナ文化ホール、ライヴ
http://tower.jp/item/3045394/Pergolesi%EF%BC%9A-Stabat-Mater
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by k_hankichi | 2012-12-30 16:14 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)
内田光子のピアノには、作曲家と対話しているものが音魂となって、珠のように零れ落ちてくるような印象をうける。

そんな彼女は、どんな物言いをするのか。雑誌Mostly Classic(2004年10月号)の付録DVDのなかにそれがあった。2004年ごろには、彼女はベートーヴェンのピアノソナタの最後の3曲に集中していたようで、そのことを語っている。

それぞれの曲は別個に30年に渡り弾いていて、何十年も前から、いつ最後の3つ(3曲)を一緒に弾くかということを考え続けていたが、「その最後の3曲を一緒に弾いたことに意味があるのだと信じたときにしか弾けない」、という。そして、いまそれを「まったく信じている」と云い放っていた。

この3つは一つの曲だとする。「膨大な」(巨大でもない長大でもない)曲だとする。ベートーヴェンは、3度と4度の音程でできているモチーフと一つの音階によって、一つの曲として3曲を書いたというのだ。

全ては作品109(第30番)が元になっていて、そこからの展開であり、なかでも最も強靭で密度が高いのは、作品110(第31番)であり、だからそれを「蝶よ花よ」という音楽を聴いているような感覚で弾いてはならない、とする。作品111(第32番)は、下手に弾いても様になるぐらい、曲が持つ強さが異常なほど良くできていて、最も弾きやすいとしている。

シューベルトのように死神と死の世界がすぐそこにあるようなものではないが、現世から離れてくる、という感覚はあるとする。

内田さんがベートーヴェンについて語る口は、実に情熱的であり、しかし、冷静に自己を見つめているようで、なんだか小林秀雄の講演を聴いているような錯覚に陥った。とても小林秀雄だった。

この音盤をさっそく聴きたくなった。
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by k_hankichi | 2012-12-29 01:04 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)

大掃除その後

今日も、まだ家中の大掃除をしていた。尽きることのない感覚にとらわれる。どうしてこんなに物が多いのかとなじると家人はプイとしていてしまい、片づけのスピードは、早まるどころか鈍化する。

NHKの朝ドラマ『純と愛』では、今週も、父親の狩野善行(武田鉄矢)が、家庭が上手くゆかないのは、すべては純のせいだ、誰々のせいだ、と他人のせいにする発言を続けて、例年の朝ドラには似合わないほど歯がゆくまた陰鬱な様相を呈しているが、気付いてみると僕も狩野善行になっているのかもしれない。

しかし、家事全般は、どうも何がどこにあって、これはどうしてこのように配置されているのか、などということは、普段の日々はとんと気付かないので、こういった年末の大掃除に、気を利かせたつもりで、気付いたことをいろいろと言っているのが良くないようだ。

とにかく、にわか仕切り人になってみると、如何に、いえのなかの物事を要領よくこなすのが、むつかしいのかが分かってきて、普段の仕事をしている状態とは、まるで次元が異なるということに、ようやっと気付く。
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by k_hankichi | 2012-12-28 23:53 | 社会 | Trackback | Comments(0)
このところ、朝晩が冷え込む。思えば、小中学生時代は、冬と言えばこれぐらい寒かったし、東京の郊外には、登校時間帯には霜柱はそこかしこに有って、その上を如何に壊れないように歩けるかを競ったり、また、一人でのときも壊してその柱の長さにいちいち驚いて、さらにわくわくしながら次の未開墾地を探しまわったりしていた。

いつのころから寒さが和らぐようになっていて、そしてまた、最近はいつから寒さがぶり返したのか、そういったことに想いを馳せたときに、寒さの程度が変化していたことに実は気付いたということになる。

『変化』の第2章でも、こういった気候や四季であるとか、また、政治、都市国家の移り変わりのさまのなかから、変化に気付いたこと、そしてまた、その本質を解き明かす思索がされている。

出だしが、またよい。

“我々は変化といふものが突然起るものと思つてゐる。それは変るといふことから我々が受ける印象とも関係があることかも知れなくて少しづつ変つて行くことには気付かずにゐてそれが急であることで始めてそのことがあつたのを認めるから変ることとそれが急にであることが一緒にされるのであると考へられる。・・・(中略)・・・同じであることを変化がないことと見て疑はないのは変化があつたことに自分が気が付くまではそれがなかつたと考へるのと自分の不注意を棚にあげてゐる点で選ぶ所はない。”

それから次のことは、併せて重要である。

“変化と椿事を混同するのもあり勝ちなことであるがこれも間違つてゐる。それはひとつには変化が急に起るものと考へることと結び付き、もう一つはその為に椿事を実際以上に大袈裟に受け取ることになる。これも大きな変化の口だらうか。その形で変化と見られるものも多くは椿事、災害でそれが及ぼす影響の規模によつて大きいといふ観念も生じるのであるがこの種のものはそれ自体の方向に従つて進むといふことがなくてそれ自体が同時にその終りでもあり、その終りに一途に向つて行くことでもある。そこには見えない推移というものはない。・・・(中略)・・・それで何かが起つてゐることは明白であつても変化といふのが変化と感じられないものであるといふ点でだけでもこれが変化でないと考へることが許される。”

小難しいことが書かれていると思うのはいけなくて、それは、吉田さんゆえのしっかりとした思考の流れの一端であり、これをそう思って読まずしてこの書の面白みが得られることはない。

変化

吉田健一 / 青土社

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by k_hankichi | 2012-12-27 22:38 | | Trackback | Comments(6)
年末の大掃除で本とCDを整理した。我が家・わが部屋のあまりのオーバーフロー状態に、取って置きだったものまでも処分することにして(注:八神純子のベストアルバムは除く [思い直して良かった] )、近所にある本/CDのリサイクル・チェーンショップに持ち込んだ。そして、いつものように驚くような低い値付けを言い渡された。これに対して、いつものように、“まあいいや、どうだって”、と安岡章太郎の「サアカスの馬」の心境で買い取ってもらう。星飛雄馬であれば、「負けだ、完全に負けだ・・・」と膝を突き天を仰ぐだろう。

悲しみの十字架を背負う心境で、帰りがけに、その店の中古CD棚の代わり映えのしない平板なその品揃えをだらだらと恨めし気に見やっていた。廉価版コーナーという500円以下の棚もあり、カラヤンのチャイコフスキーであるとか、カルロ・マリア・ジュリーニのブルックナーだとかがある。ああ、そうか、そうだろうなあ、とため息をついた。

と、ふと、白い紙ジャケットのブラームスのヴァイオリン協奏曲、弦楽六重奏曲(第2番)が収まった音盤がその先にある。ヴァイオリンはイザベル・ファウスト(Isabelle Faust), 指揮はダニエル・ハーディング(Daniel Harding)でマーラー・チェンバー・オーケストラだ。

この目を疑った。これは昨年の新盤。ど、どうして・・・?

そして、もしや、と思い当った。この音盤は輸入盤で、そしてしかも、ジャケットの写真は、蓮池の前に緑色の日ざしをあびて顔色も髪の色も緑色になっている、イザベルが、その髪型も60年代風な出で立ちで流し目をしているのだ。

このチェーン店の選別眼であれば、このジャケットの色合いにずいぶん古いCDだと錯覚をし、そしてまた輸入品という位置づけにさらに困惑し、この価値を見逃すことは千万である。僕はおもわず、左右の人々を見回しながら、そそくさとレジに向かった。

そしてこれを今、聴いている。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲というもの、こんなに刺激的な曲だったのか。そして、イザベルよ!あなたは、こんな人だったのですね。シャルル・アズナブールに、この演奏を聴かせてシャンソンの詩を変えさせたい。ダニエル・ハーディングの躍動と柔和のコントラストあふれる、ブルーノ・ワルター的な音の響かせ方には、もう完全にひれ伏する。

年末の、あの店への奉仕は、私への祝福賛歌へと転じた。

■音盤:HMC-902075(ハルモニア・ムンディ)
■曲目、演奏:
1. ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77
イザベル・ファウスト(Vn)、ハーディング指揮/マーラー・チェンバー・オーケストラ
2. 弦楽六重奏曲 第2番 ト長調 Op.36
イザベル・ファウスト(Vn)、ユリア=マリア・クレッツ(Vn)、ステファン・フェーラント、ポーリーヌ・ザクセ(Vaヴ)、クリストフ・リヒター、シェニア・ヤンコヴィチ(Vc)
■録音:2010年2月 ソシエダ・フィラルモニカ [1]/2010年9月 テルデックス・スタジオ [2]

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ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77/弦楽六重奏曲 第2番 ト長調 Op.36 (Brahms : Violin Concerto String Sextet no.2)

Isabelle Faust / Harmonia Mundi Fr.

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by k_hankichi | 2012-12-26 21:30 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(5)
“昭和ですよ!”という特集が組まれた、多様性を考える言論誌があり、初めて買ってみた。『コトバkotoba』第10号(集英社)。

あの時代を担ったたくさんの著名人たちが寄稿していている。半藤一利、山田洋次、小林信彦、鴨下信一、なかにし礼、富子不二雄、永井豪、池内紀、泉麻人、小沼勝、香山リカなど。

わくわくしながらページを繰ったが、次第次第に読み進める気持ちが失われていった。萎えた。何かが物足りないのだ。

はじめは一つ一つの章が短すぎるのかと思った。しかし見返してみると、3段組の割り付けで6ページ程度は割いている。短すぎるということはない。

ではなぜ萎えたのか。この雑誌は、寄稿者に、異なる側面から「昭和」を振り返ってもらい、分析的な視点で、それは何だったか、何が起こったかを明らかにさせようとしていない。単に放置されたままだ。

そもそも、「昭和」は何だったかの「仮説」も設定されていなかった。さらに多様性を重んじる余りに、それぞれの観点からの分析をそのままに尊重した。

論考は「課題や問題」の設定からはじまり、「その原因や解決策の仮説」を立て、それを事実から検証したり、実験や計算から求めたりし、直接的間接的に仮説の実証、採択棄却をしていくはずだ。しかし、それがなかった。

結局、ぼくは、ただ昭和についてのいくつかの情報の海のなかに放り投げられ、そのままになった。

もしかすると、“多様性”を重視するあまり、総括して統一したまとまりとして、何かを捉えようということを避けてしまっているのだろうか。

こんなことを書いているうちに、民主党の新代表に、海江田万里が選ばれた。この雑誌に似ていると思った。

以前、故あって『WILL』という言論雑誌を一年間購読したが、それはそれは、筋の通った紙面だった。読んでいることを知った知人から、「こんな雑誌を買って如何なものか」と言われたりもしたが、どんな主義主張であれしっかりしたつくりで、その構築性には感銘していた(僕はこの雑誌の主義主張の系統にはないけれど)。

多様性を考え過ぎて、八方美人になっていては、何も捉えられない。時代を創るには、たとえ不十分なデータであろうとも、総括しようという姿勢や論点が有って欲しいと思っている。
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by k_hankichi | 2012-12-25 15:33 | | Trackback | Comments(0)
吉田健一の新刊が店頭に並んでいてすぐさま手に入れた。『変化』(新装版、青土社刊)。解説は松浦寿輝が書いている。この作品は、『ユリイカ』の1976年9月号から翌年6月号まで10回にわたり連載され、そこで中絶した、文字通りの未完の遺作だそうだ。

家で一ページ一ページを舐めるように読み始めたが、例によって吉田の文章で、だからそれを理解するには相当の時間がかかる。この年末年始に全部を読めればよいと思い、そうであるならば、一日に1章をかみしめて紐解いていこうと思った。

今日は第1章から。

“さうすると我々が歴史に求めてそこから得るものも普通に言ふ変化であるよりも寧ろ持続に近いものではないだらうか。例へば一人の人間の一生はその人間の一生といふ一つしかないものであつてそのことを示す変化を我々はその一生に追ふ。又それでその変化が我々に語りかけるものになる。それと同じことを我々は人間の歴史に就てもしてゐると考へられる。”
⇒変化は持続の連続からなっていて、しかし、いつのまにかその性格が変わっているときに初めて変化に気づく、ということ。

“或ることが起こる毎にそれまでのことがなくなるのでは変化は再び明滅に過ぎなくなる。フランス革命があつてフランス人が別な人種、或はフランスに住む人間が何か人間でないものになつだのでなくてフランスといふ国とフランスの国民がこれからもさうであることを続けるためにこの革命があつた。・・・(中略)・・・そしてそれは根本的には我々が今日この革命を変化よりも持続、或は一つの持続の杜絶を防ぐ為の変化と見る丁度その理由によるものなのでこれはフランスだけでなくてヨオロツパ全体に既に用をなさなくなつてゐながら力でしか破れない因習を破つて別な枠、因習が用意される道を開くことを得させる性格のものだつた。”
⇒体制が変化するということは、破壊的なものが根源ではなくて、枠組みであるとかスキームが変態してゆくことであり、持続によることがもたらす陳腐化ということを防ぐもの、と言っているようだ。ではいま、日本の政権交代は何なのだろう。きっと吉田にすれば、「変化の名を借りた杜絶」とでも言うのではなかろうか。

“我々が変化と感じないでも変化は変化であるといふ理窟は通らないのである。或はもしそれでも構はないならば変化は再びただの明滅であつて互に脈絡がないことが幾ら起きてもそれは起きては消えて行くだけの現象であることを免れない。”
⇒ということは、日本の今の政治は、単なる明滅だということだ。

“それまではその人間にとつてその本がなくてその本を読むといふ一つの変化が起つた。或はそれが変化であることでその本を読んだ価値が認められる。・・・(中略)・・・その前と後が同じでない点でそれは成長でもある。”
⇒喩えの事柄ではあるが、繰り返されるなにかを単に観た聞いたという程度では変化というものにはならない、しかしそれを通じて何かの影響がもたらされ、あらたな観念が生じるとき変化とそして成長がもたらされる、というように考えればよいか。

この調子で、ゆるゆると、これからの章を噛みしめていきたい。

変化

吉田健一 / 青土社

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by k_hankichi | 2012-12-24 18:49 | | Trackback | Comments(7)

音楽コンクールの夢

今朝の夢は、音楽コンクールに出場しているものだった。頃合いは、もうすでに第三次予選だ。僕はモーツァルトのピアノソナタを弾き、割れるような喝采を浴びる(実際の自分は弾けないのだけれども)。これは優勝か、という思いが頭をかすめた。

しかし第二部があった。オーケストラを操るコンペティションだ。ああ、協奏曲なんだな、それは楽しく弾けるな、と思っていたら、なにやら様相が違う。

オーケストラを指揮する力量をみるものだった。う・・・。そんなことが、コンクールの規定書に書いてあったっけ?と思ったが、他の演奏者は次々と指揮の練習を始めている。

曲目は決められていた。ブルックナーの交響曲の難しいやつだ。ピアノ曲ばかりに熱中していた僕には、ブルックナーのブの字もわからない。他の人たちは、次々と、この難曲を振りこなしてゆく。

僕の順番になった。ぶっつけ本番で降らせるのだ。コンサートマスターから、「スコアはどれですか?」と聞かれた。タクトが譜面台にあるだけで、自分で書き込んだ全譜スコアを持参すべきだったのだ。

僕は仕方なく、ありあわせのスコアを用意してもらい、指揮棒を下ろした。四拍子だっけ?ワルツだっけ?

「もういちど初めから!」僕は、いきり立って、皆に伝えた。

すこしづつ旋律が流れ始める。しかしテンポはぎくしゃくして、どうにもこうにもスムースに響かない。会場のあちこちから談笑がささやかれる。

畜生、これは失敗だ・・・。規定書を読まなかった僕が悪かった・・・。

表彰式になった。第4位。

オーケストラの楽曲くらい勉強しておけば、難なくできたのに、と悔しく思うが、そのまま、受賞者の記念パーティ(なぜか居酒屋)に僕は足を運んだ。

画竜点睛を欠くべからず、ということを云わんとする夢だったのかなあ・・・。
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by k_hankichi | 2012-12-24 10:15 | 夢物語 | Trackback | Comments(0)
カミーユ・クローデルの小さな彫刻を初めて見たとき、「愛と陶酔」という言葉が、そこかしこに散らばっていて、胸がきゅっとなった。そして、時間が止まるような感覚に陥ったことを、いまも覚えている。

アンヌ・デルベ(Anne Delbee)の『カミーユ・クローデル』("Une Femme"、渡辺守章訳、文芸春秋刊)は、1982年にオルセー劇場で初上演された劇の原作で、彼女の生い立ちから最後の哀しい結末までを、抒情的に、そしてきわめて詩的に描いたものだった。途中途中に、モンドヴェルグ精神病院に収容された彼女からポール・クローデルに送られた手紙が挟み込まれ、その悲痛な叫びが痛々しい。以前観た、イザベル・アジャーニ主演の『カミーユ・クローデル』(1988年、ブリュノ・ニュイッテン監督、フランス、翌年のセザール賞の作品賞、主演女優賞ほか多数受賞)が重なった。

本の中には、ユーゴーの詩が引用されていて、それはクローデルとロダンの二人の気持ちを表すものとして、夢幻というものがどういうものか、心に沁みた。

“女人の肉体よ、理想的の粘土よ、奇跡と言おうか、
精神のなかに崇高にも侵入する、
えも言われぬ至高の存在が捏ねる粘土のなかに!
魂が経帷子をとおして輝いている物質よ!
神なる彫像師の指の見える泥土、
抱擁と心情を呼ぶ高貴なる泥土よ、
いとも聖く、かくも愛は勝ち誇り、
かくも魂は、臥所へと神秘の力に押しやられて、もはや分からぬほどなのだ。
この快楽は一つの思想ではないのか、
可能であろうか、なかろうか・・・・
五官が火と燃えさかるときに、神を抱くと信じることなく、
美を抱きしめることは可能だろうか。”
(『世紀の伝説』の「イヴからイエズスへ」)

そして、『ワルツ』と題された彼女の彫刻に対しての、オクターヴ・ミルボーの次の描写に、深くため息をついた。
彫刻の写真はココ→http://www.camilleclaudel.asso.fr/pageweb/valse.html

“・・・互いに絡み合った二人。だが二人はどこへ行くのか、こんなにもぴったり結びつけられた霊と肉の陶酔に、我を忘れて?愛へ向かって行くのか、それとも死へか?

彼らの肉体は若く、生命にうちふるえているのに、それらを包み、それらにまとわりつき、それらとともに回転する衣は、まるで屍衣のように波打っている。私は二人がどこへ行くのかを知らない。愛に向かうのか、死に向かうのか。

私に分かるのは、この二人から痛ましい悲しみがたちのぼっているということであり、その痛ましさたるや、死から来るとしか思えないが、さもなければおそらく、死よりはるかに悲しい愛から来るものなのかもしれない。

誰に分かろうか。いくばくかは、彼女の魂と彼女の心情が、奇跡のようにして彼女に霊感を吹き込んだのだ・・・。”




カミーユ・クローデル

アンヌ デルベ / 文藝春秋

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by k_hankichi | 2012-12-23 20:54 | | Trackback | Comments(2)