<   2012年 10月 ( 36 )   > この月の画像一覧

月餅の怪

上海土産に月餅がある。それはいま家のリビングのテーブルの上に鎮座している。蘇州夜曲の雰囲気の妙齢の美しい人が、箱に描かれている。18個入りだ。

一つだけ減っている。家人たちは遠巻きにして、それ以上は触られずにいる。

横浜中華街で買ってくる月餅だったらば、すぐさまに無くなるのに。減らない。

蘇州夜曲の女性が怖いのか。

否。

もったいないと思って遠慮しているのか。

否。

期限切れなのか?

否。

上海帰りの月餅は、いつまでもテーブルの上にある。

その理由を語るのも怖い。

「まんじゅう怖い」という落語よりも怖い。
[PR]
by k_hankichi | 2012-10-31 08:02 | 食べ物 | Trackback | Comments(2)
職場の或る同僚のことを、ながらくロックミュージシャンだと思っていた。身なりなり、事務デスクの上に置いてある雑誌なりCDなりから、てっきりそう思っていた。

しかしあるとき、彼が前職ではレコーディングディレクターをしていたことが分かり、音楽の種類に応じた録音コンセプトの違いについて話題になった。

話の流れから、音楽の録音については、こんな本もあるよと、このあいだ読んだグレングールドや調律師の本を貸した。

すると、本、良かったです、というコメントと共に、往年のピアニストの弾きっぷりを収めたDVDや、マリア・カラスのパリデビューコンサートのDVDを貸してくれた。

少し話していたならば、ロック音楽が好きだが、それだけでなくポピュラー、クラシック、幅広く好きだという。

ベヒシュタイン、ベーゼンドルファ、スタインウェイなどの楽器構造の違いやらまで知っている男で、非常にクラシック音楽を聴き込んだ輩だった。

ぼくは最近ファツィオリの音色に填まっている、と彼に呟いたら、ファツィオリですかあ、良いですねえ、とにやりとした。

音楽の世界は広い。さまざまな領域を解せば更に広がる。その男の寡黙な佇まいから僕は深さと広さを感じ、心地よい感慨に耽った。
[PR]
by k_hankichi | 2012-10-30 07:12 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(0)
友人からのメッセージで、シューマンがヴァイオリン協奏曲を作曲していたことを遅まきながら知り、CDを買い求めた。

ニ短調のこの曲の出だしは、小刻みに震えるオケの弦。いかにもシューマンかと思いきや、色調はモーツァルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』さながらで、なんとも陰鬱だ。しばし優しい旋律が挟まれるがまた暗い影が射し込まれる。

そこにいきなり割り込むように入るヴァイオリン。そうきますか?と訝しく思うもののそこがシューマン。

ヴァイオリンは、悩みというものを打ち消し、そして優しさはどういうものかを懇切丁寧に語り始める。これから起きるだろう出来事を知らしめるかのように。

しかしこの協奏曲は長い。いや、長いのではなく長く感じる。シューベルトのあの長い交響曲のような感覚に捉われる。

第三楽章もそうで、しかしこれが、シューマンが悩みぬいた果てなのだ。

なかなか決めきれない彼の葛藤がこの協奏曲に表れていると思った。

シューマン:ピアノ協奏曲&ヴァイオリン協奏曲

クレーメル(ギドン) アルゲリッチ(マルタ) / ワーナーミュージック・ジャパン

スコア:


[PR]
by k_hankichi | 2012-10-29 07:03 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)
よく眠ったはずなのに、どうも身体が錘のようで、昼過ぎに外出から帰って横になった。そしてたちまち午睡。

夢をみた。

いろいろな人が、さまざまなことを僕に問いかけてくる。生き馬の目を抜くように、どのひとも貪欲な形相だ。だれをも押しのけて、自分、自分、金、金、儲け、儲け、と問いかけてくる。隣よりも良い暮らし、優越感、蹴落とす、というようなこと。

とてもおそろしくて目覚めた。過去から未来へ生きる小説『永遠者』やら、すぐに夢想してしまう男の映画『百夜』を観たからなのかと思ったが、それだけではないような気がする。

あの大陸で、たくさんの人々が、ものすごくたくさんの人々が、交差点や道をランダムに、無節操に、歩き走りつづける姿を目の当りにしていたことも、なにか起因になっているようにも思う。

僕らは、戦後、その道筋をたどってきた。そしてその末に何があるのかを知っている。

さらに本当は何が必要なのかということを、もっとも大切なことは何なのかということを知っている。
[PR]
by k_hankichi | 2012-10-28 21:03 | 夢物語 | Trackback | Comments(3)
辻仁成の『永遠者』(文芸春秋社)は、1900年から2011年までに至る、記憶と愛が永遠に近いくらいに感じられる長い時間に跨った物語だった。100年愛ともいえよう。パリの万国博覧会で出会った女、カミーユと永遠の愛を誓った外交官コウヤ。そしてそれは成就して、しかしそのことは、コウヤにとっても、そして周囲にとっても当惑と苦悩をもたらすものとなってしまった。

コウヤは、そして次のように相手に言う。

”この百年の歳月が私に教えたものはただ無為とも呼べる永遠の孤独であり、永遠の悲しみであり、永遠の絶望であり、永遠の不幸のみだった。・・・(中略)・・・愛というものは、押し付けるものでもなく、奪うものでもなく、与えるものでさえない。いずれ来るという別れを惜しんで今をともに生きることの中にこそ宿るもので、限りある世界だからこそ限りない愛が存在できるに違いなく、それこそ、永遠ではなく一秒の中に込められた気持ちということになる。”

記憶というものは時に過去を捏造し、未来に嘘をつき、現在を嘲う、とコウヤは語る。しかし僕らはそれでも生き続けなければならない。軌跡を糧に自分の未来に投企せざるを得ない宿命とともに。

永遠者

辻 仁成 / 文藝春秋

スコア:


[PR]
by k_hankichi | 2012-10-28 09:52 | | Trackback | Comments(1)
ロベール・ブレッソン監督の作品は初めてだったが、観終えてしばらくしてから、なにかじわじわと記憶がよみがえってくるような映画だった。特に、イザベル・ヴェンガルテンという役者経験のない、その人の清楚さと恥らい。そしてポン・ヌフと界隈の街の静かな佇まい、そのなかに流れる若者の歌。川面を行き来するバトー・ムーシュの雰囲気も、なんともしみじみとする。

もう一人の登場人物、ギョーム・デ・フォレという男も素人だという。女性を前にするとすぐに夢想してしまい、私的時間の共有を図ろうとする。「電車男」のフランス版のようにも思うが、彼の気持ちは僕らには必ずあるもので、それに気づくだけでも、ちょっと恥かしい。

1971年の作品だというが、そのころのフランスの街や人々のなかにある穏やかな時の流れ。ドストエフスキーの原作であることを忘れそうになりそうになる。

「ユーロスペース」(渋谷)での公開。

c0193136_1413354.jpg



[PR]
by k_hankichi | 2012-10-27 19:40 | 映画 | Trackback | Comments(0)

変貌の速度感

上海の街並みを見ていると、膨大にどこまでも成長する怪物のように思えてくる。30年ほどまえまでは、一面が田園であったということが信じられない。河を渡るのにはついこの間までは渡し船を使うしかなかった、という話も、目の前の高層のオフィスビル、マンション群を眺めていると、にわかには信じられない。100階建ての(450メートル級の)高層ビルが立ったかと思えば、いまその隣に建設中のものはそれよりも100メートル以上高いという。

訪問先の玄関には、そこでの成果が認められ始めた1980年代の写真が飾られているけれど、そこに出ている人々は一人を除いて全員が中華人民服を着ている。たいていは白黒の画像である。僕らが大学を出たての頃の画像とは思えない。しかし歴史を思い出してみれば、たしかにそういう時期だったわけだ。

そこから30年しか経ていない今日この空間の窓の外には、瀟洒なデザインのファッションビルがあり、そしてその前の通りをドイツ、フランス、アメリカ、日本、韓国の車が抜きつ抜かれつ、割り込み、群がり、走っている。米国かなにかのオフィス街と見まがうほどだ。

貧富の差は、あることが見て取れる。社会主義の国というものは平等な生活が送れるはずなのだろうと夢見ていた人も多いだろうが、この現実を目の当たりにすれば、違和感に捉えられる。真の社会主義への移行期間が現在なのだ、という説明らしいが、なにをどのように運んで、そのような姿にしていくのかは想像だにできない。

不思議なる哉、上海。
[PR]
by k_hankichi | 2012-10-26 18:33 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)

上海の空はけぶっていた

今日は上海にて仕事。いろいろな反発や葛藤があるのかと思いきや、街は至って平穏。どこが反抗しているのかとおもう。

僕は相手方と、くったくなく直球で語り合っていたので、周囲は、実はハラハラして見ていたらしいが、あとになってから言われても仕方がない。

しかし中国の懐の深さに感じいった夕べだった。

部屋の窓からは、昼間に見た海辺のビルが、まだこうこうと光っていた。

c0193136_1783463.jpg
c0193136_179456.jpg

[PR]
by k_hankichi | 2012-10-25 22:57 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)
読み始めた件のレヴィナス本では、冒頭にその答えが記されていた。これは、よく読むと非常に含蓄がある。そして、おお…、まさにそうなのだよなあ、と頷いた。

この思想にたどりつくまでの、ながき道程についても、ひたむきな思索の繰り返しを想い、ただただ頭が下がった。

「何のために生きるのか。何ものかのために生きる。しかし、何ものかのために生きることを通して、自分のために生きる。しかし、自分のために生きることを通して他者のために生きる。しかし、他者のために生きることを通して人類のために生きる。ところで、人間は肉体の愛を通して子供を生むことがある。そのことを通して、再び、他者のために生きる。そして、再び、人類のために生きる。ところで、人間は死ぬ。さらに再び、死ぬことを通して、他者のためと人類のために生きて死ぬ。総じて、奇矯な言い方に聞こえるだろうが、何のために生きるのかといえば、死ぬために生きるのである。」
[PR]
by k_hankichi | 2012-10-24 06:29 | | Trackback | Comments(3)
小池昌代の『弦と響』という小説を読んで、無性にベートーヴェンの弦楽四重奏曲が聴きたくなった。小説のなかで楽団が解散するコンサートでの最後に演じられる曲、第14番嬰へ短調作品131だ。

何故第15番や第16番、そして大フーガではなく、これなのだろうか。聴いていて感じるのは、「希望」の存在のような気がした。それも、遣り遂げた爽快感のあとにある希望。絶望ではない希望。

シューベルトをして「この後でわれわれに何が書けるというのだ?」と言わしめた。

演奏家人生の最後を飾る。しかしそのあとの余韻(余生)を爽やかなる気持ちで送ることを考えると第14番なのかもしれないと思った。

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第12番&第14番

アルバン・ベルク四重奏団 / EMIミュージック・ジャパン

スコア:


[PR]
by k_hankichi | 2012-10-23 06:56 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)

音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です


by はんきち