カテゴリ:美術( 55 )

フジタの素描の崇高さ

『ランス美術館展』(損保ジャパン日本興亜美術館)を観た。展示の半分はフランス近代画家たちによる作品、そして後半はレオナール・フジタの作品の数々だった。何よりも感銘したのはやはりフジタだった。

僕にとってそのなかでも最も素晴らしかったのは、ランスの平和の聖母礼拝堂のフレスコ画の下絵。それは素描と称してよい筆致なれども、込められた情念の深さは半端ではない。これをもとに彩色を施したフレスコ画が出来ていったのだが、結果の素晴らしさ以上に沁み入るものがあった。

それはモノクローム映画の作品が、俳優の情念をより深く伝えていくる場合があることに似ている。と同時に、作家の精神がしっかりと伝えられるほどの完成度だからこそなのだ。

藤田嗣治は、紛うことなくその世代の芸術家の域を超越していて、宗教はおろか何事をも超越して宇宙レベルに繋がる崇高さに至っていた。


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by k_hankichi | 2017-04-30 22:04 | 美術 | Trackback | Comments(2)

クラーナハとの出会い

映画のあとは、クラーナハの絵を観に国立西洋美術館に訪れた。久しぶりの上野だ。

静かにこちらを見つめる人が、それぞれの絵に居る。

宗教改革の前後で領主たちに仕えながら、この透徹なる絵の数々を描いたこの画家の、人の心を読む眼差しを感じた。

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by k_hankichi | 2016-12-11 10:15 | 美術 | Trackback | Comments(2)

夜のゲルニカ

出張からの帰り道に、矢も盾もたまらずそこを探した。いつも歩いている通路からすこし入った処にそれは静かに掲げられていた。

ブログ友人が教えてくれた『ゲルニカ』だった。

それは陶器に忠実に再現されていて、画家の令息によるお墨付きの作品だ。

人々の喧騒を避けるかのようなそれは、まさしくひっそりとある。

描かれたものには殺戮も血もないのにも関わらず言葉を失ってゆく。そして眺めるほどにそこには途方もない哀しみや憤怒が伝わってくる。

僕らを見ている。

僕らの遣り様を冷静に眺めている。

僕らの経済や政治や生活のなかの争いごとを静観している。

遠い極東にあって、はたして僕らはピカソの気持ちにどれだけ応えているだろう。

何も。

そんな言葉がホールから谺してきた。

誰の声だ?

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by k_hankichi | 2016-10-14 07:28 | 美術 | Trackback | Comments(2)

茫洋ということ

昨日、足を運んだ先で、驚いた。都民の日で(?)無料だったのだ。損保ジャパン日本興亜美術館の『カリエール展』だ。

ポートレートや家族を描いた生活画、そしてどこであるか「無記名」に近い(でも場所は書いてはある)風景は、どの作品もセピア調で、輪郭は茫洋と描かれる。視点を定めて目を凝らしても、やはり茫洋としているので、その人たちは存在しているのか消えかかっているのか、分からなくなる。

揺れ動く視線、触れるか触れないかのような薄絹を通じて柔らかく包み込まれるような人や風景。

19世紀末の日々を漂うように眺めているうちに、僕はいつしかそのころの彼らの部屋のなかに招き入れられていた。

揺蕩うような面持ちは持っていく先がなく、いつしか新宿の雑踏に誘い込まれて、キンミヤ焼酎の梅エキス割りを頂いていた。

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by k_hankichi | 2016-10-02 10:09 | 美術 | Trackback | Comments(2)

星野道夫のバッハ

星野道夫が亡くなって20年を迎えたそうで、それを機にしての特別展を観た。『星野道夫の旅』(於、松屋銀座)。

この人のことは確か僕の友人が好んでいたと思うが、自分ではしっかりと写真を観たことはなく、エッセイを読んだこともなかった。

はじめは単に極圏の動物写真家なのかと思いながら作品に見入っていたが、しかしすぐにそれは部分なのだとわかり始めた。そしていつしか引き寄せられていた。

星野さんは動物や自然や極地の人間たちを撮ることを通じて、次のように感銘して、ただただ心をうち震わせていたのではないかと思った。

「自分たち人間は生きているのではなく生かされている」

「人間はごくごく片隅の存在でしかない」

「長い宇宙の歴史の軌跡なかで地球があり自然が生まれ生き物たちが奇跡的に共に居る」

ところで今回、近視眼的ではあるけれども奇縁を感じた。

僕と星野さんはもとは同じ市に住んでいて、通った小学校も電車の駅を挟んで隣同士だった。中学校は東京に通ったがそれも隣同士だった。高校と大学とその学部は、件の僕の友人と同じだった。

僕たちは、どこかで必ず肩を摺れあうほどにしていて、見えない形で関わりあっている。

展覧会の会場では、そのBGMにバッハの無伴奏チェロ組曲が、ごくごく微かに流れていた。無限の歴史、無限の宇宙、そのなかで出会いこの世に生きる奇跡の軌跡を伝えようとしているのだと思った。

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by k_hankichi | 2016-08-29 00:17 | 美術 | Trackback | Comments(3)

空中盆栽という芸

NHKニュースを観ていたら、盆栽について報じられていた。国内での愛好家は高齢化でその数は減少の一途。いっぽうで、海外からの注目が集まっているということ。

この和の調和の世界は、宇宙にも繋がっている、というような考え方なのか。人工的に作り上げた植物でありながら、自然を想う気持ちが呼び起こされていく。身近にこれを愛でることで、輪廻転生的なるものに思いを馳せてゆく。

神秘性が更に増すのが「空中盆栽」だそう。その駆動原理は僕には分かるのだけれど、摩訶不思議なまま説明を省くことが却って存在感を増す。

■Floating Bonsai Trees Are Now A Reality
https://youtu.be/jssXjtYoDl0


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by k_hankichi | 2016-06-26 07:59 | 美術 | Trackback | Comments(4)
みちのくからの帰途である。みちのくと云っても、いつもその入り口のようなところを訪れているだけなので、僕はまだ本当のみちのくを知らない。

そんな車中で手に取っているのは、「トランヴェール」というJR東日本の雑誌。この2月号は、秋田特集で、そのなかに“藤田嗣治の描いた、角舘の少女”という記事があった。

秋田県立美術館の平野政吉コレクションのなかに、『秋田の行事』という横20.5m, 縦3.65mの絵があって、その紹介から入る。この絵のことはNHKの美術番組で紹介されていて知っていたのだけれど、そのなかに雪室(ゆきむろ)のなかでゴザを敷いて座って、木べらで雪遊びをする少女たちの姿があるという。

それは角舘という地の情景と少女だというのだ。その素朴なあどけなさに惹かれ、その地を歩いたりカメラで撮影したりした。随筆集『地を泳ぐ』でも、そのことを綴っているという。

いつか、この奥の地に足を向けたい。まだ見ぬその地を訪れて、静かに、しんとただ立ち尽くしてみたい。

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by k_hankichi | 2016-02-05 07:58 | 美術 | Trackback | Comments(4)
友人が関係している工藝展のカタログを頂いた。題して「工藝をわれらに二〇一六」だ。
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000468.000005794.html

工藝というものの範疇をいまだ知りえない僕だけれども、それが美しいのか否かという程度のことはわかる。この冊子に描かれているガラスや錫や漆器や陶芸からは、そこにそれが在るということを知っただけで、「切り取られた生活の鼓動」のような感がした。

カタログの前半は、室内生活の中での静物で、それはアグファカラーによって本の中に投影されている。これは殆ど小津安二郎の映画のなかのスチール写真のようで、いや、これはあのとき撮影したのでしょう、監督、と声に出しそうになった。

友人はカタログのなかで、モリス、宗悦、そして現代に関するエッセイをしたためている。そのなかに、次のような一節があった。

“柳宗悦の文章は熱い。その熱さは、ウィリアム・モリスの生涯の多岐に渡る活動への情熱に似ている。(中略)柳宗悦にとって「工藝」を考えることは、人々の暮らしを通じて、その未来に向かっての生き方を考えることに他ならなかったのである。”

“「生活の藝術化」、「美しい生活文化」という言葉を、そのようなモリスや宗悦の問いかけの中に置いた時、それは単なる理念ではなく、美しいものたちとの暮らしを通して我々が本当に生きるための手触りを取り戻すための切実で具体的な提案ではないか、と思えてくる。”

実際の展覧会を訪れて、これらの作品を、ぜひとも眺めてみたくなった。じっくりと、時間をかけて。
 
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by k_hankichi | 2016-01-22 06:48 | 美術 | Trackback | Comments(3)

香水瓶の話の続き

このあいだ香水瓶のことを書いていたら、学生時代の友人から、その『香水瓶の世紀』展のカタログが送られてきた。松の内を明けてからお年玉を貰ったようで、何だか子供のようにとても嬉しくなった。

これまで香水というものに縁遠かった自分は、カタログを手に取りながら、それを納める瓶というものがこんなにもアートになっていたのだということを、とても遅まきながらに感じ入る。ページを繰るたびに吐息をつく。

そのなかには、ブログ友人が思い出深いと記していた、ジャン・パトゥー社の「JOY(ジョイ)」があったりして、これにもまた驚く。ボトルのオリジナルデザインは1929年とある。アールデコ的な均整ある美に魅入り、これはシングルモルトのような風情の香りなのかしら?と想像が巡る。

この香水は、1974年にはバカラのボトルに入れられ限定販売された、とも記載されている。

鈍色の鉱石のような様式から、クリスタルの光沢に移り変わった香りは、どんなものだったのかな、とこれまたぐるぐると想像を巡らし、夜も眠られなくなるような宵になった。

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by k_hankichi | 2016-01-21 00:55 | 美術 | Trackback | Comments(4)
友人が関係しているアートハウスで、昨年後半に「香水瓶の世紀」展が開かれていたことを思いだした。
http://event.japandesign.ne.jp/2015/06/7892/

展覧会が開催されているときには、あまり関心がなかったのだけれど、やっとその意味が分かり始めている。

年末に或る切っ掛けからオードトワレを買い求めることになり、付け方やらなにやら覚束ないまま、見様見真似で(といっても真似る人が居ないのだけども)、数回試したりしていた。すこし調べてみたら、使い方はいろいろ工夫が要るようで、そういうところからエチケットの始まりであるような具合。

“化粧品を人間の嗅覚、触覚、視覚に訴える特別な感性的価値を生み出すことができる『工藝芸術品』”と福原信三さんは捉えていたそうで、たしかに香水はその香りだけでなく、色彩や色合い、ボトルのデザインなど、複数の感性を刺激する。噴霧する際の音だって、耳を心地よく刺激するから聴覚に対しても訴えている。

件の美術展の資料によると、バカラやルネ・ラリックらもが競って瓶を製作していたそうで、それらも見るからに美しい。これは香りだけではなくて総合的なる文化なのだ、と心の底から分かったのも使ってみたからで、だから友人には、遅くなってごめん、という気持ちと共にとても感謝したいと思った。

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by k_hankichi | 2016-01-18 00:09 | 美術 | Trackback | Comments(4)

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by はんきち