音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です

by はんきち

カテゴリ:映画( 219 )

出張の機中で映画『サバイバルファミリー』を観る。2016年、東宝、矢口史晴監督。
http://survivalfamily.jp/

仕事一筋で家庭は全て妻任せの夫・鈴木義之(小日向文世)は、妻(光恵、深津絵里)や息子(賢司、泉澤祐希)娘(結衣、葵わかな) から疎んじられている。

そんな或る日、世の中のエネルギーが一斉にシャットダウンされる事象に遭遇する。電気、ガス、水道。

これらがないと都会生活は成り立たず、一家は東京から祖父が住む鹿児島へ自転車で移動することに。

互いに相手に責任をなすりつける家族。しかしサバイバル活動をしていくうちに目に見えぬ強い絆が、しっかりと作られてゆく。

この境遇に陥ったら僕だったらどのようにしてゆくだろう。徒党を組んで皆を引き連れて生き残りをかけて自然に帰る生活をしていけるだろうか。

現代のすべての家庭に突きつけられた命題かもしれない。
 

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by k_hankichi | 2017-07-12 08:24 | 映画 | Trackback | Comments(0)

『死の棘』を観る

こんなに原作に忠実に出来るのか、と深く暗い吐息をつきながら観終えた。『死の棘』(松竹、小栗康平・監督、1990年)。

何を記載しても無駄に思えるほど、どよんとした大きな水溜まりのなかに放り込まれた感じがするが、それはそのままで良いのだと思った。

つまり文句なくの秀作で、何度も見返したい作品となった。

このDVDは小栗康平コレクション(駒草出版)のなかに収められていて、別冊で小栗監督と文芸・映画評論家である前田英樹の対談が入っている。そこには次のような記載があって、なるほどこの配役はこういうところからきたのかと分かった。

“奥山さんは「ミホを松坂で・・・君は本当にそう思っているのか?」と真顔で尋ねてきました。その時点ではまだ脚本は出来上がっていなかった。そこでこう説明したのです。「考え方として、新劇の無名の俳優さんを使うか、名の知れたスターを使うか、二つの撮り方があると思います。名の知れた俳優さんを使う場合だったら、作中のミホとトシオの関係性からしても、ミホは大スターであるべきです」。そのようにお話ししたら、「じゃあ、俺のところでやれよ」と。ここで決まってしまった。”

“当初、主役のトシオには、松竹の往年の大スターだった人の息子を考えていました。某二枚目俳優です。松竹はそのキャスティングをとても喜んでいましたが、当の本人から「自分にはできない」という返答が返って来てしまったのです。確かにその俳優さんは役の設定よりずいぶん若かったし、松坂さんとの年齢でのバランスの問題もあるにはありました。ただ僕は、そういうことを全部呑みこんだうえで、やれる、ジャンプしなさい。そう伝えていたのです。最後は会って二人で話をしたのですが、彼にはそれだけの勇気がなかった。あの時にやっていれば、お父さんに並ぶような大きな俳優さんになっただろうに・・・残念なことでした。”

この素晴らしい作品の主演を断った人が居たとは。この人かな?と思い当たるところはあるけれども、洞察力を発揮することや大事なとき開き直ることの大切さについても、なんだか教わった。

・1990年 カンヌ国際映画祭 審査員グランプリ
・日本アカデミー賞主演男優賞・主演女優賞

<キャスト>
島尾ミホ:松坂慶子
島尾敏雄:岸部一徳
邦子:木内みどり
<スタッフ>
音楽:細川俊夫

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by k_hankichi | 2017-07-03 06:12 | 映画 | Trackback | Comments(4)
ほとんど期待もせずに出張帰りの機中で観たのは、阿部寛と天海祐希主演の『恋妻家宮本』(遊川和彦監督、2017年、東宝)だった。→http://www.koisaika.jp/

それが半分滂沱の涙に溢れてしまい、またもやキャビンアテンダントの視線を避けるのに大変なことになってしまった。

学生時代に結婚し、子供も社会に巣立っていった50歳の夫婦、宮本陽平と妻・美代子に、二人きりの生活が始まっていく。中学校の国語の教師をしている陽平は、余暇を楽しいものにすべくクッキングスクールに通い始めるが、それを目の当たりにした妻は・・・、というように展開していく。

考えてみると僕らの世代の人間は多かれ少なかれ似たようなところがあり、ああこれは友人の彼だし、こちらは学生時代のあいつの境遇、そしてこちらは・・・と、当てはまるものが続々とでてくる。

愛妻ものの映画は『今度は愛妻家』が文句なく珠玉なのだけれども、この作品も仲が良いのか悪いのか分からなくなっている世代の夫婦の本当の心というものを、やさしく鋭く、ときにコミカルに描いていく。

さて僕の場合は、どうしたものか。涙のあとに、ハタと考えさせられる佳作だった。

■曇り煙った空の下にも沢山の恋妻家がいるだろう上海。
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by k_hankichi | 2017-06-28 00:15 | 映画 | Trackback | Comments(0)
いささか出遅れた感はあるが、映画『ラ・ラ・ランド』(2016年)を観た。これは今年になってから観た映画のなかでは自分としては最高のもので、最後のシーンまで楽しめた。そして感涙してしまった。

もともと戦前戦後のMGM系ミュージカルが好きだった(それはあの『ザッツ・エンタテインメント』による触発啓発が大きい)ので、たいていのミュージカル映画は好きなのだけれど、この作品は、新しいタイプのミュージカル映画の形を提示したと思った。

どういうことか。

第一に、型に嵌っていない。このあたりでこの登場人物が歌い始めるだろうなあ、という予感を一切受け付けず、こんなところから歌ですか?と驚くようなところから歌になる。主体を為すストーリーも、ミュージカルということを一切感じさせず、ドラマとして素晴らしく楽しめる。のんべんだらりとした隙は一切ない。

第二に、歌の上手さを競わない。え?その音程?と感じるほど、少々調子外れでも歌いこなしてしまう大胆さが凄い。もちろん音楽はジャズもポップスも何もかも良く、タップダンスを始めとする踊りも素晴らしい。

第三に、主人公たちには作られた表情が一切ない自然さで満ちている。ミア・ドーラン役のエマ・ストーンは、デビューできない女優の卵。グラマラスでもなく超美人でもなく、しかし人の目を引く独特の美しさがある。昔から知っている友達のような親しみを感じる。ジャズピアニスト・セブ・ワイルダー役のライアン・ゴズリングの、いかにも音楽家らしい繊細さが良い。

最後のシーンは、もし仮に二人が結びついていたのならば・・・とエマ・ストーンが夢想するストーリー展開になっていて、それがまた胸が震えるほどにロマンティックだ。

「女がジャズを好きになるとき、それは恋の始まりである」、というサブタイトルが良く似合う、家族全員、老若男女で楽しめる素晴らしい作品だった。


■出張先の海外で出会ったクマモン(映画とは関係ないです)
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by k_hankichi | 2017-06-27 00:19 | 映画 | Trackback | Comments(2)
借りてあった映画のDVDを観た。『サラの鍵』(原題:Elle s'appelait Sarah )。劇場公開のときに見逃してしまい、ようやっと観ることができた。

フランス人が自国民を自らの手でユダヤ人たちを収容所に送りこんだおぞましい歴史のなかで、一家族の女の子・サラが切っ掛けとなって糸のように繋がっていくさま描かれている。

彼女の家にその後住むことになったフランス人家族
生きながらえたサラがアメリカに作った新たな家族

ジャーナリストはサラの系譜や人生を探っていくにつれ、平穏に暮らしていたそれぞれの家族のなかにある秘密が明かされることになる。そのことが明かされていくことの当惑。

秘密にしてきたことを明らかにしたことで、沢山の摩擦が出たりするのだけれど、最終的にはそれでよかったのだということに気付いていく。

家族の系譜というものは、どのような人たちであろうとも、ほんとうに大切なものであり、ひとつとして軽んじられたり素通りしたりできないものなのだと思った。

最後のシーンでは、むせび泣くほどの感動を覚えた。

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by k_hankichi | 2017-06-24 18:43 | 映画 | Trackback | Comments(2)
借りてあったDVD映画を宵に観た。『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(新藤兼人監督、1975年)。溝口映画といえば『雨月物語』で、畏れ慄きながら纏綿として流れる愛の執念のような雰囲気に没入したことを思い出す。その監督がいかに鋭い視点観点から俳優たちを操り、作品を創り出していったのかがわかった。

とりわけ興味深かったのは、田中絹代、京マチ子、中村雁治郎、浦辺粂子、川口松太郎、若尾文子、木暮実千代、山田五十鈴などによる述懐。

それぞれの俳優が持つ述懐からは、監督が実際にはだれを尊重してきたのかが、如実にわかって、人によっては痛々しいほどの事実が浮かび上がってくる。

1976年(第49回)キネマ旬報ベスト・テン 第1位、監督賞の作品は秀逸だった。

■『山椒大夫』より
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by k_hankichi | 2017-06-19 06:13 | 映画 | Trackback | Comments(0)
最大の賛辞を送りたいと思った。2016年の映画第1位としたキネマ旬報と、その映画に関わったすべての人たちに。そして目を見張るほどに素晴らしかった主演声優の「のん」に。

『この世界の片隅に』である。→http://konosekai.jp/

筋書きを知らないなかで見始めたが、それは予想していた内容とは随分と異なった。お涙頂戴型の悲劇ではなく、しかし、淡々と戦前~戦後の日常(それは平穏から非凡、戒厳、超絶的な破壊と殺戮そして解脱へ)が描かれていく。

それぞれのシーンのアニメーションのタッチは柔らかくて優しい。昨年一世を風靡した実写的なアニメ映画作品とは全く次元が異なっていた。感性的な、とでもいおうか。

そして更に驚いたのは、その情景を支える音楽だ。おそらくシーンごとに、視聴者には敢えて気づかれないように配慮されている。とりわけ美しかったのは戦禍の悲劇の場面で、それは単純な演歌的短調ではなく、それを超えたら全てが瓦解するだろう寸前の脆い不協和音だった。

そのままいけば崩れ落ちるぎりぎりの瀬戸際の音階というものが、こんなに美しいものだということは、アルバン・ベルクやアントン・ヴェーベルンのピアノ曲を初めて聴いた時以来のように思う。
 



■Anton Webern in Stettin, October 1912, From Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1137036
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by k_hankichi | 2017-01-21 16:06 | 映画 | Trackback | Comments(2)
友人から、『第三の男』の最後のシーンの解釈は、このようにもあるよ、と教えてもらった。松岡正剛さんのブログの言葉だ。→http://1000ya.isis.ne.jp/0844.html

次のようにしるされていた。そして、僕は不覚にも、男と女の愛というものが、いかなる罪悪をも超えるほどの強さをもっている、ということを忘れていたことに気付いた。「物語というものは常に勧善懲悪」という訳ではないのだ。

 決定的な違いは有名なラストシーンに劇的に集約された。原作では、警部とともにハリーの埋葬を終えたアンナが誰にも挨拶せずに並木道を歩き始めると、警部に車を勧められたマーティンズがこれを断ってアンナを追い、やがて二人が肩を並べて歩きだす。「彼は一言も話しかけなかったようだった。物語の終わりのように見えていたが、私(警部)の視野から消える前に、彼女の手は彼の腕に通された」というふうに終わっている。
 ところが、よく知られているように、映画では警部とともにマーティンズを乗せた車が、いったん冬枯れの並木道のアンナを追い越し、しばらくしてマーティンズが降りる。カメラが並木道をまっすぐに映し出すと、遠くにアンナが見える。マーティンズが道端でそれを待っているあいだ、カメラはしだいに近づくアンナと舞い散る枯れ葉を撮りつづけているのだが、マーティンズの傍らを過ぎるアンナは一瞥もくれずにそのままカメラに向かって歩いていって、そこでチターがジャランと鳴って、幕切れなのである。
グリーンはこのラストシーンの変更を、「これはリードのみごとな勝ちだった」と脱帽した。

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by k_hankichi | 2017-01-12 00:40 | 映画 | Trackback | Comments(0)
年末年始のMXテレビの録画で実は初めて『第三の男』を観た。

言わずもがなの作品で、キャロル・リード監督の名作だ。そして「第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にしたフィルム・ノワール」、とも書かれている。

映像美は素晴らしく、主題音楽のすばらしさと相まって、陶酔しそうになる。

ところがストーリーはとんでもない。

ペニシリンを薄めて横流しする男が、その犯罪を煙に巻き、如何に当局から姿を眩ますかということに対して、それを知らずに彼を訪れた善良なアメリカの友人が当惑し、やがて対峙する、というもの。横流しが単に金稼ぎだけであれば世間に害は少ないが、薄めた薬が老若男女が新たな病気になって苦しむことを生み出している。

女は愛する人が犯罪者であるにも関わらず、それに対して知らぬふりをしようとしていくわけで、それを放置するわけにはいかないのが普通だ。

墓地から続くウイーンの並木道のラストシーンで、女が正義の男の横を一瞥もせずに歩き去ることが哀愁もたらす、ということになっているのかもしれないが、ストーリーを良く追ってみれば、その女もソビエトに送られていてしかるべきで、男の前を三顧の礼を以て立ち止まるべきだろう。

邪知暴虐を治めた、この第四の男をもっと讃えるべきではないかと思った。


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From https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=2869806

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by k_hankichi | 2017-01-11 06:52 | 映画 | Trackback | Comments(3)

誘い文句に負けた日

「人間の真の価値とは何かを問う、ラグジュアリー・サスペンス イタリア・アカデミー賞(ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞)7部門受賞」と書いてあれば、そりゃ凄そうだと足を運んでしまうものだ。作品賞、主演女優賞、助演女優賞、助演男優賞、脚本賞、編集賞、録音賞。

その『人間の値打ち』(Il capitale umano, 2013年、イタリア)を神奈川の二番館で観終えて、嘗て燦然と輝いたイタリア映画の威光はどこにいったのだろう、と思った。

舞台は北イタリアの富豪のベルナスキ家。広大な敷地と御殿。その間にうごめく人間たちの欲望を描いた作品なのだが、あまりにも人間関係が薄っぺらだ。イタリア人はこんなものになってしまったのか。

あるじのジョバンニ・ベルナスキは富を保つ欲望。
ジョバンニの妻・カルラは、嘗ての舞台女優の栄光を取り戻す欲望。
彼らと親交を持てたと考えている不動産業を営むディーノ・オッソラは、富を得る欲望。
その恋人ロベルタは、子供を得る欲望。
オッソラの娘セレーナは、真の愛を得る欲望。
そして、セレーナが愛するようになるルカ・アンブロジーニは、人間として認められたい欲望。

或る夜に起きた自動車によるひき逃げ事件をきっかけに、彼らの欲望の渦がそれぞれの欲望を暴く方向に動いていく。

映画はつまらなかったけれど、金持ちというものはどういう思考をするものなのか、ということだけは分かった。

■映画トレイラー →
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by k_hankichi | 2017-01-09 00:39 | 映画 | Trackback | Comments(3)