音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です

by はんきち

カテゴリ:一般( 266 )

昨日の祝宴の名残があって、どうも記憶が蘇らない。

アナ〜タ、イマトコアル、ワタ〜シ、ワッカラナイ

そういう異邦の朝である。

■逸品料理の盛り合わせに、「コレハ満漢全席デスカ」と訊ねてしまい笑われた。
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by k_hankichi | 2017-07-14 07:12 | 一般 | Trackback | Comments(0)
うだるような暑さのなか、食材を冷やす家電製品がいきなり壊れた。知ったのは今日なのだけれど、家人に言わせれば、具合がわるいことはかねがね伝えてきていたよう。それを僕が取り合っていなかったゆえに今日の突然崩壊に至ったのだと、ようやく分かった。

しかたなしに新しい機器を買い求めに行く。

いまの世の中、5~6社から様々な容量の製品が売られていて目移りするばかり。どれがよいのかとんと見当がつかなく当惑したが家人は違った。

この会社のこれはこうで、こちらはこうなっている。だからこれがよいのだ、とまるでアキハバラデパートで包丁砥ぎ器を売っている販売員のように、相手の心境を把握し心得ている。

馬耳東風の男がこれまで素通りしていたことの反動が一気に出たかのようで、お店の人もその切り口にはタジタジである。なるほどなあと頷き続けざるを得ない。

そこで明かされた最適解に従って、新しい製品を注文し一件落着となる。

まもなく届くそれを待ち遠しく思いながら、週日の疲れに誘われて眠ろうとしている暑い宵だ。

■同じ日に、ついでに買い求めた品物のタグ。フィレンツェでの縫製と説明されて思わず買い求めた仕事用のカバンなのだけれど、やっぱりタスキ肩掛けのタイプを選んでいた。
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by k_hankichi | 2017-07-08 21:01 | 一般 | Trackback | Comments(4)

遺構を掘り出す旅

引っ越しで運んだ段ボールの数々を荷ほどきしていて、学生時代のLPレコードが三百枚規模で出てきて驚いていたが、先週はそのころの日記(というか雑文集のようなもの)が束になって見つかった。

よくもまあこんなに毎日書くことがあったなあ、というほど、様々なことを書き連ねている。思索はなかなか前進はなく幾度も幾度も始めに戻る。それでも懲りなく言葉は重ねられ、棄却され、発見し(したかのように思い)創造されてゆく。

呆れ果てたいが、しかし頭が下がる。このエネルギーは今の僕にはない故に。

気が向くままに、いくつかページを繰っているだけで夜は更けゆく。遺構を掘り進める旅は発見の旅。

まだ始まったばかりだ。

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by k_hankichi | 2017-04-06 08:19 | 一般 | Trackback | Comments(4)

七人の天使に見守られ

今日はお祝いの席に招かれた。七人の天使に見守られて無事に挙式が執り行われ、しあわせというものが、どのような処にもあるのだということを感じ入った。

若き二人の馴れ初めの若々しさや、育て上げられたそのことへの感謝の気持ちの自然なる表現に接しているだけで、何故か涙が溢れでる。

それはそのまま涙腺から口に入ってきた。混じりけの無い透明なる純粋というものは、こういうものなのだと、深く考えてみる必要もなく伝わってきた。

精霊に触れるということはこういうときなのかもしれない。

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by k_hankichi | 2017-03-18 21:26 | 一般 | Trackback | Comments(2)

仕切り直しをした朝

昨日は、ざわざわ、わさわさとした状況に陥らされていた。思い返せば、こういうことを「翻弄される」というのだと気付いた。弄ばれるほうはたまったものではない。

人間とは恐ろしいものでそんなときの憤りの気持ちを向こう見ずにもブログに書き連ねてしまったりもする。翌朝起きてみて、あれまあこんなにも邪な事柄を吐露していたかと、慌てそれを消し込むのだけれども記憶は簡単には無くならない。

ジュリアス・シーザーの時代の最も重い刑が「存在抹消の刑」と称して、罪人が生きてきた記録などを全て消去するものだった。

→ https://en.wikipedia.org/wiki/Damnatio_memoriae

既に亡くなっている過去の人たちに対しても言い渡されるときもあったそうで、その場合は全ての石碑や記録媒体から、その人の言葉やら成し遂げてきた事柄の記載が削り取られ、歴史上もその人は存在しなかったことにするものだった。

それでも人間の記憶は大したもので、そうやって消去された人々はどんな人だったか、ということが何百年も経ても忘れ去られておらず、だから無かったことにするということがどんなに大変なのかが分かる。記録物から消し去られても人々はしっかりと記憶していて、誰かがちゃんと伝えてくれる。だから僕が陥った事柄についても、自分だけでなく誰かがきっと思い出してくれるだろう。

そんなことをつらつら考えながら、まあそうは言っても今朝は仕切り直しだ、一からやり直しだ、と気概も新たに仕事に臨むのだ。

記憶は時折頭をもたげたりするだろうが、理念や理性でそれはまたおさえこまれてゆく。意識的に腑に落ちるように出来るのも人間の凄い業だなあと、自分のことながら改めて感心した。
  
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From: https://en.wikipedia.org/wiki/Damnatio_memoriae

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by k_hankichi | 2017-03-17 08:01 | 一般 | Trackback | Comments(0)

引っ越しに没頭する

二十年ぶりの引っ越しは堪えた。

今まで暮らした家の最後の片付けと掃除まで、しっかり行うだけでも、身体の節々に負荷が入る。

ようやく終えて、これからが新居の中のたたずまいを整えるとき。

書棚に取り掛かってみて、はて?と思ったのは、やっぱり何年何十年経っても、大切に思う本の順番は変わりないなあ、ということ 。

本の並びにこそ、気持ちが表れるものはない。

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by k_hankichi | 2017-03-12 22:27 | 一般 | Trackback | Comments(6)
居宅の引っ越しを久しぶりにやってみて、身辺に溜まった様々な物がなんと多いことなのかと愕然とした。勿体ない症候群ではないのだけれど、書籍、CD、押し入れの奥に入っていたLPレコ―ド、写真アルバム、映画や音楽会のパンフレットなどなど、出るわ出るわ。

このあいだ書籍やCDの大棚ざらえ処分をしたばかりなのにである。

「これからの家訓は断捨離にする」

このあいだこのように家人たちにぶちまけた言葉に対して、ノーレスポンスだった意味が、ようやく分かった。

自分からして身辺をもっともっと、潔くしなくては。

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From: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Duanshelis.jpg
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by k_hankichi | 2017-03-04 23:15 | 一般 | Trackback | Comments(2)
パソコンや携帯電話で急いで文や文字を送ったとき、しばしば意図せぬ文字が送られていて恥ずかしくなったり当惑したりする。

「お願いしまふ」
←「お願いします」

くらいならば可愛い。このあいだは、

「これは実物でしょうか、それとも複線入試でしょうか」
←「これは実物でしょうか、それとも複製でしょうか」

となっていて、どうしてこんな単語になっているのか理解不能だった。誤変換が「替え玉入試」だったりしたら始末に終えぬ。仕事メールではなかったので胸を撫で下ろす。

しかしまてよ、と思った。

こういう不思議な言葉が生まれるのは、深層心理が関係しているのかもしれない。いやきっとそうだ。

「ベルグソンを読みたまえ」

小林秀雄も、先の本で言っていたっけ。

愉悦は哲学に繋がってゆく。

■アンリ=ルイ・ベルグソン
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by k_hankichi | 2017-02-08 07:49 | 一般 | Trackback | Comments(3)

疾走してゆく予感

二月に入った。相変わらず様々な事柄に追われている。今日は既に3日。あと25日しかないから三週間とちょっとだ。

師走も慌ただしいけれど、日数が短く、春への準備で忙しい如月も、疾走感ではひけをとらない。

中高生の頃は、春のクラス替えを前にして今の仲間たちと過ごす日々をカウントしていた。卒業を前にすれば、友人たちとの最後の遊びや旅行を名残惜しく過ごした。

学生の頃は進級できるかなということにもヤキモキしたし、社会人になってからは、「もうじき入社×年が経つなあ、じぶんは何なのかなあ・・・」と感慨したりした。

受験生を抱えていた頃は最終的な合否判定にやきもきし、「サクラサク」を期待する暗黙の重い空気が辛かった。

今月、そしてその結果の3月。

この疾走感を味わおう。そしてその結果の来月を楽しみにしよう。

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by k_hankichi | 2017-02-03 07:46 | 一般 | Trackback | Comments(3)
実家に立ち寄って話をしていたら、ひょんなことから自動車運転免許証返上のことが話題になった。

僕の父親はもう80歳代も最後半に差し掛かる年齢。最近世間を騒がしている高齢者の自動車運転ミスと加害事故のこともあって、そろそろ免許返上しないといけないんじゃない?ということだ。

しかし父親は、そんな諭しのことは全く意に介さず、昭和30年代の高度経済成長の時期に初めてスバル360を手に入れて以来60有余年の自動車運転歴を振り返りながら、昭和の自動車社会のことを語り始める。

彼は、おそらくいま生きている世界中の人たちのなかでも、トップ1%に確実に入るだろう長寿かつ凄腕ドライバーであり、そしてその車をなんでも自分で修理できてしまう世代の最後だと思う。

そんな父親に教育されての僕だから、自動車は自分で修理するものだと決めてかかってこれまた40年が過ぎており、「あんた、昔から車好きだったわよね」と母親から言われることになった。

母親の記憶披露独演会とあいなって、当の本人がまるっきり忘れている事柄を、どうしてそんなに覚えているのか、という、啞然を通り越して、脅威すら感じる次元の時間に突入。

たしかに、僕の車好きは父親譲りかもしれない。そして、それ以外の生きる指針のこまごまとした事柄のひとつひとつまでも、父親の影響を相当に受けていることを、改めて、しみじみと思い至った。

それほどまでに、僕という人間は単純素朴で、だから自分のアイデンティティなどというものは、有形無形なもの、あるいは、ほんとうに取るに足りないものだともいえる。
 
■"memory" by Olin Levi Warner (1844–1896). Photographed in 2007 by Carol Highsmith (1946–), Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4150818
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by k_hankichi | 2017-01-29 22:56 | 一般 | Trackback | Comments(5)