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カテゴリ:本( 982 )
諸君、あたしは霊ではあらない。無形のイデアとしてそこかしこ休んでおる。
ようやっと『騎士団長殺し』(村上春樹、新潮社)を読了した。久しぶりに本格小説の醍醐味を味わった。と同時に、この作品は村上氏の代表作になってゆくのだなと感じた。友人もそう僕に話した。

そして知らぬ間に自分自身のうちにも騎士団長が居ることにも気づく。彼の語り口を借りて自分は話し始めている。それは如何にも奇異だ。しかしそれでもこの話法はもはや異形と呼ばれることはなくなるだろうと確信している。「騎士団長語」が人々の間に膾炙してゆく目には見えない「気」の流れを感じる。

諸君、あたしは霊ではあらない。無形のイデアとしてそこかしこ休んでおる。

そんなふうな言葉を発する団長は、何故か自分にそっと寄り添ってくれている。

僕たち一人一人は何を甲斐性に生きているか?其れが無くなってしまったら人はどうなるのか?

その記憶を頭に心に留めておくだけで生きていくのか?或いはそうするだけで生きていけるのか?

喪失と諦観、そして微かな希求再生。その物語だった。

シューベルトの交響曲第5番変ロ長調D485の第二楽章が、この小説にぴったり合っていると思った。あらゆる音符が旋律が和声が身に沁みてゆく。

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by k_hankichi | 2017-03-23 06:28 | | Trackback | Comments(4)
先人の言葉、こころに響く
その本を読み終えて、夢を描き、人を巻き込み、情熱と愛情を以て、清らかに平らかに、正々堂々と周囲に接し、世の中を変えていった経営者の言葉が、ずっと心の中に響いた。

「経営首脳の不思議なところは、ミスをしてもその場にはだれにも気付かれずに何年もそのままでいられる点である。それは経営というものが一種の詐欺まがいの仕事にもなりかねないことを意味する。・・・私の考えでは、経営者の手腕は、その人がいかに大勢の人間を組織し、そこからいかに個々人の最高の能力を引き出し、それを調和のとれた一つの力に結集し得るなかで計られるべきだと思う。」

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by k_hankichi | 2017-03-09 19:30 | | Trackback | Comments(2)
完全に弛緩した逍遙の深みを極めたい
堀江敏幸の『郊外へ』(白水Uブックス)を読了。久々にパリの街角やその郊外の空気、風景や人々の生きざまに触れた。

それにしても堀江さんのフランスにまつわるエッセイや小説は、その濃度が濃い。それも文学の次元だけでなく、地域地勢学、ギリシャ時代や神聖ローマ帝国まで遡る歴史、古今東西の芸術家まて幅広く、気が抜けない緊迫度だ。

そうかと思えば、どこまでも街区を歩き続けたり、偶然来たバスに考えなく乗って終点まで向かったり、あてどなさは果てしない。

戦後間もないころに公費留学した学生や教職は、フランスや欧州の文化学術に圧倒され精神的にも極限まで追い込まれて、しかしそのなかから独自の境地を切り拓いてきた。「我」、「彼」というふたつの狭間で、必ず、「彼」に圧倒されてきた。

それがどうだ。

堀江さんからは、そういう精神的な極限を感じない。彼も我も同様な距離感で眺めている。そればかりか、かの地に生きる様々な人たちと交わる。

あるときはアラブ系の移民だったり、あるときは酒場のマスターだったり。また、そういう仲間とのビリヤード競技やら賭け事のようなものに興じたり。アパルトマンの貸間斡旋業を闇でやったり。給付留学という身分ではご法度なものごとにも余り躊躇いをみせていない。

つまり完全に弛緩している。ああ、このような状態での逍遙を深めたい。彼の地の街角や城壁の外側までを自在に歩き回り、その空気や人々の合間に埋没してみたい。

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by k_hankichi | 2017-03-01 08:24 | | Trackback | Comments(2)
しっかりと読めた対談
対談というのは、僕にとって「コミック」並みに苦手な読み物だ。だからできるだけ遠ざけてきた。

たぶん、対話の空気や行間を読む、ということが苦手だからかもしれないし、対話のなかに時折入り込む「ははは・・」とか「(笑)」という字面に、ぞっとするような気持ちになるからかもしれない。コミックでも「こっ、これは・・・」みたいな吹き出しが分からない。

そんななか『『深い河』創作日記』の付録に入っていた対談・『『深い河』操作日記を読む』(三浦朱門、河合隼雄)があって、どうなのかなあと思いながら少し読み始めた。いつもと調子が違うのに直ぐに気付いた。どんどんと中身が頭に入ってくるのだ。

遠藤さんに対する篤い友情にも溢れた素晴らしい対談だった。

次のような三浦さんの言葉に、遠藤さんの最後期の思いを重ねた。

“初期のキリシタン時代の日本人たちが洗礼を受けることに対する抵抗感の一つは、「キリスト教の存在も知らずに死んだ我が親たちは、地獄の業火で永遠に焼かれているのか」ということです。それが、異教徒が回心するときの大きな問題点だった。遠藤の場合には、それはヨーロッパへ行ったときの違和感と重ねられて意識されていると思う。けれども彼は、それでいいんだ…南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でも、インシャラーであろうとアラーアクバルであろうと、結局は大きな河の流れのなかで一つになっていくんだ、そううう考え方だと思います。しかし遠藤にとっては、神というのは子供のときから懸命にこだわってきたものしかないけれども、だからといってそうではない他の人たちも救われないことはないので、救わなきゃいけない…という意味はあると思うんです。”

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by k_hankichi | 2017-02-28 07:58 | | Trackback | Comments(0)
『深い河』創作日記に見える生みの苦悩
あれだけの大作家だから、中長篇小説の一つくらい、お茶の子さいさいだろうと思っていた。それが全く違うのだということが分かった。『『深い河』創作日記』(遠藤周作、講談社文芸文庫)。

日記を読んでいると、あの作品の構想のみならず、伝えようとしたいこと、登場人物に何を語らせるか、なども刻々と変遷をたどって行く。最終形を僕らは読んでいるわけだが、没になった結末があった。それは暴徒に殴られた大津が亡くなり、それを知った美津子がガンジス川に入って沐浴をするというもの。

こちらの方が良いなあ、と思いつつ、どうして遠藤はいまの結末にしたのか。

二人の愛は添い遂げられない、すれ違うことが普通なのだという、生きることへのある種の諦観や哀しさを表そうとしたのではないか、と思った。

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by k_hankichi | 2017-02-27 07:38 | | Trackback | Comments(3)
『深い河』における探求
ブログ友人の薦めだったが、読んでみて良かった。遠藤周作の『深い河』(講談社文庫)。

“「それではお前にとって神とは何なのだ」
と修道院で三人の先輩に問われて、ぼくはうっかり答えたことがあります。
「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎみるものではないと思います。それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草木をも包む、あの大きな命です」
「それは汎神論的な考えかたじゃないか」
それから三人はスコラ哲学のあまりに明晰な論理を使って、ぼくのだらしない考え方の欠陥を追求しました。これはほんの一例ですけれど、でも東洋人のぼくには彼等のように何ごともはっきり区別したり分別したりできないのです。

最晩年の遠藤は、自らのキリスト教信仰について、東洋的なる視点を加えて思索を深めていたのだと知った。輪廻転生のような観点まで加え、ヒンズー教の考えにも共感を示した。

深い河とは、ガンジス川の深さだけでなく、あらゆる宗教をも超えた深い思索の溝なのだと、ようやっとわかった。



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by k_hankichi | 2017-02-26 17:59 | | Trackback | Comments(2)
線香花火のように哀しい『火花』
又吉直樹の『火花』をようやく読んだ。文春文庫。

漫才コンビたちの心や生きざまを描いたもので、僕にはあまり接点はなかったのだけれど、自分たちの芸を磨き、それを認めて貰いたいと願う気持ちの純真さに吐息がでた。

小説のあとには芥川賞受賞記念エッセイ「芥川龍之介への手紙」が収められていて、それはまさに現代版・太宰治の筆致。もし太宰治が芥川賞を獲得していたら、こんなふうに書いただろうなと思って、微笑んでしまった。

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by k_hankichi | 2017-02-24 07:37 | | Trackback | Comments(2)
引き際の美・・・『波打ち際に生きる』(松浦寿輝)
芥川賞作家でもある松浦さんは、東大教授を定年よりも7年も早く退官した。その記念講演と最終講義を収めた本が『波打ち際に生きる』(羽鳥書店)だ。鮮やかなまでに美しい引き際において、それまでの軌跡を振り返りながら淡々と述べていく。

“波打ち際とは、波が打ち寄せてくる「場」であるわけですが、同時に、絶えず寄せては返しつづける波の運動という「出来事」それ自体なのだと思います。その出来事には一種特有の心もとなさがまとわりついており、そして、その心もとなさ自体をいとおしむという、いとおしみの感覚とも結びついている。(中略)わたしが実人生の波打ち際で、また精神の波打ち際で出会った、いとおしい何か。それは言葉であったりオブジェであったりイメージであったり、さまざまな形を取るわけですが、そんな出会いを契機として自分のなかに喚起されたものを、自分なりの言葉に置き換えてみようとした種々の試みが、あるときは論文となり、あるときは詩となり、あるときには小説になっていったのではないかと思うのです。”(退官記念講演より)

自分も社会人としての勤めを退くとき、こういうふうな確信と展望と、そしてすこしの悔悛を、さまざまな邂逅への感謝とともに述べられたら、と思った。

最終講義のほうについては、締めくくりの言葉を吉田健一の『時間』から「夕方の光線」の部分について抜粋して朗読している。ああ、この最後の言葉が発せられるその場に居られたらならば、どんなに幸せなことだったろうか。

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by k_hankichi | 2017-02-23 00:06 | | Trackback | Comments(4)
映画技法の魅惑
丸の内の丸善1階の片隅に、作家や名士による推奨本コーナーがひっそりとあった。あまり期待せずに眺めていたら、先ごろ直木賞を得た恩田陸による推薦本が幾つかあり、なんとなく気になってそのなかの一冊を買い求めた。『映画術』(塩田明彦、イースト・プレス)。

読み終えて、ますます映画を観たくなり、そして紹介されている名作の数々に触れてみたくなる。

これまで親しんできた蓮實重彦の高踏派的評論とは一線を画し、どのように映画を観るのか、分かるべきなのか、そして演ずるのかという視点で映画のコマ落としもふんだんに挿入して書かれている。

著者は映画監督。創る側のロジックを深耕し、推察まじえて種明かしをしているから面白い。

映画美学校アクターズ・コースという俳優志望の生徒むけの連続講義から採録されたもので、「演技と演出の出会う場所から映画を再考する」という視点で構成されている。

“結局のところ、演技というものの最初の拠り所は、自分自身の経験、記憶、日比の観察、他者の観察、それしかないんです。その繰り返しによって、自分が日々無意識的に過ごしてきた時間のすべてを意識して、同時に、自分の無意識の底に眠っているありとあらゆる経験の引き出しを手探りで開こうとする。だから無意識が厚くはならずとも活性化し、流動化する。するとその人間の顔が変わるんです。” (「第二回 顔」より)

“小津安二郎という人が、なぜ俳優を無表情にするのか、なぜ俳優の内面を露出するような芝居を禁止するのか、俳優に対して「機械的に動け、無表情になれ」と要求するかと言うと、〜皆さんも小津映画を観ると不思議に思いますよね?〜表情を消すことによって「場」が立ち上がるからなんです。ここでは、岩下志麻が置かれた「場」が立ち上がってきています。(中略)それが、いわゆる小津の「残酷さ」と呼ばれるもので、ここでは処刑宣告のような「場」が作られているんです。”(「第三回 視線と表情」より)

僕らの日々の生活や移ろいも、まさしく意識せずに起きていることや、無意識に振る舞っていること。映画というのは、そういうことの真相真意を表す試みなのだと気付かせてくれる。

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by k_hankichi | 2017-02-21 07:54 | | Trackback | Comments(4)
遠巻きにしてきたフィッシャー=ディースカウ
今更ながらにディートリヒ・フィッシャー=ディースカウのことを、ずっと遠巻きにしてきたことに気付いた。堀江敏幸の『音の糸』(小学館)を読んでのことである。

彼のことを、堀江さんは次のように表現する。

“やや大きめの地方大学で体育学か運動生理学を教えている、アーチェリーの元欧州選手権銀メダリストに喩えたりするだろう。知性と身体能力が完璧に結びついた、すぐれてギリシア的な均衡がそこには認められるからだ。(中略)無重力空間で声を届かせてしまうくらい肺活量のありそうな胸をしたこの人と、”(「小川への微妙な感謝」より)

“外科医のメスのように皮膚を貫くさまがドイツ語を解さない者にもわかるような発声と、手術痕を残さない自然な治癒力のある言葉の響き。押し出しの強さと繊細さを共存させるのは至難のわざだがDFDとも略されるこの不世出のバリトン歌手の声は、短い曲であっても、長篇の一部として先に伸びていく感覚を残しながら確実に終わるという、ありえない余韻を残す。ステージの後ろで背中を見ながら聴いていても、届く声量が変わらないのではないかと想像させるような、全方位的に向いた声の柱がそこにはあった。”(「宇宙歴1951」より)

僕にとって、フィッシャー=ディースカウの印象はまさにそういうもので、それは「完璧」という言葉が表すものに近く、そういうものごとを前にすると圧倒されて逃げていきたくなるものだから、これまで彼の音楽を殆ど聴いてこなかったのかもしれない。

そんな彼は、シューベルトの『美しき水車小屋の娘』を何度も録音している。堀江さんは、最初の録音(1951年、25歳のときのジェラルド・ムーア伴奏)の衝撃を記載していて、それは歳を経てから何度か収録されたものよりも遥かに渋くて、しばし言葉を失うものだったという。

僕は聴くべき音楽をいくつも遠ざけてきた。この先、どれだけ聴いていくことができるのだろうか。
 

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by k_hankichi | 2017-02-16 09:05 | | Trackback | Comments(4)