音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です

by はんきち

カテゴリ:本( 1021 )

友人から、こんな本が出とるぞ、と連絡を受けて早速に買い求めて読了。『往復書簡 初恋と不倫』(坂元裕二、リトルモア社)。「不帰の初恋、海老名SA」、「カラシニコフ不倫海峡」の二篇からなる。演劇の脚本だということに読んでいる途中でようやく気付いた。

始めの作品「不帰の初恋、海老名SA」は、本厚木中学校の一年次の男女クラスメート間のメール。中学時代の短いやりとりは転校によって途切れ、社会人になってからのやりとりに続いていく。そしてメールでのやりとりは、ダイアローグ、対話という次元に高まっていく。

初恋というものは、初めて口にした砂糖菓子のように貴重で、でもちょっと力を加えただけで脆く崩れおちてしまう。崩れそうで崩れないギリギリの線を坂元さんの脚本は走っていく。

どのように人を愛そうとしても初恋の相手というものは常に頭や身体につきまとうもので、そういうことを思いながら描いている。出てくる事象のぞれぞれについての触れ方は、そっといたわるような繊細さで、がさつさとは無縁。

さて、エピソード的な話題をここで挟む。ダイアローグのなかには、本厚木から自転車で走って東名高速の海老名SA(サービスエリア)でラーメンを食べる、というようなシーンがある。これはまさに地元ネタで、驚いて思わず眼鏡がずり落ちた。

このサービスエリアはとても立派で、海老名メロンパンなどでも有名なのだけれど、実は、外から歩いてアクセスできる出入り口がある。そして近隣の人たちの憩いの場にもなっている。もちろん僕や家人、知人たちも何度も訪れ、舌鼓を売ったり、お土産を買い求めたりしていた。自分の記憶や軌跡、経験と交錯し、対話に尚更に親近感が沸く。

二篇目の「カラシニコフ不倫海峡」は、妻を亡くした男に、いきなり或る女が接触してくる筋書きだ。その理由は、メールのやりとりを読み進めて行くうちにわかるのだけれど、一見無関係な二人が少しづつ近寄っていくその按配が、じりじりするほどいじらしく、まさにだからこれがドラマなのだと知る。好いてしまった二人の関係は、どこまでも純化され、天に昇っても繋がっていく。

人と人の会話が真の対話に変わっていく、血の通った心と心の対話に昇華していく。それを同時進行的に体感させるのが坂元さんの素晴らしさで、それはまさに演劇の境地なのだと分かった。彼のドラマが、どうしてあんなに高い質なのかを改めて分からせる作品集だった。

こんどはやっぱり演劇を観に行かなくちゃいけない。
 

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by k_hankichi | 2017-07-23 00:13 | | Trackback | Comments(2)
ブログ友人が読まれたと聞き、やにわに僕も買い求めて読了。『アノニム』(原田マハ、角川書店)。

アートの持つ力、世界を変えていく底力について、この作品はとても清涼な風とともに伝えてくれた。

ひとりのアーティストが次のように皆に対して語るところでは、ちょっと鳥肌がたつほどの爽快感が得られる。

“おれたちひとりひとりは、確かに世界の片隅のちっぽけな人間だ。
だけど、おれが、そして君たちが新しい表現を生み出さないと、世界中に伝搬する波を作れないと、誰が言うことができるだろう?
おれたちには何もない、だからこそ、おれたちにはすべてがある。おれたちは可能性のかたまりなんだ。
いまこそ、叫ぼう。一緒に進もう。そして生き抜こう。
きっと、おれたちの目の前で、世界へのドアが開くはずだ!”
(「Saturday October 7 12:00PM」より)

絵を売り買いするオークションは、いわば経済行為の極地のような競りの世界。その実態に対して屹立するかのごとく存在するのが芸術という創造、創作行為。物欲そして自己満足を希求する経済世界と、芸術という生を希求する精神的な世界は、その起源からして対立している構図なわけで、極論すると悪と善、という次元まで到達しうる。

しかしその一見二律背反しているところから、全く予想だにしなかった解が得られるのだ、というこの小説の落としどころが、憎らしいほどに爽やか。

読了してカバーを外してみると、本の表表紙と裏表紙、そして背までが一連で繋がった1枚の絵で、それはジャクソン・ポロックの「Nubmer 1A」。油彩画のカンバス地の凹凸感をそのまま浮き出させている凝った装丁。改めてここで僕は唸り声をあげた。

究極の暑気払いだった。

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by k_hankichi | 2017-07-22 11:40 | | Trackback | Comments(2)
吉田篤弘の小説『モナ・リザの背中』(中公文庫)を読了。夢物語を扱ったとても長い作品だった。『不思議の国のアリス』のように場面が次々と移り変わり(もちろん夢のなかの出来事だから)、さらに理不尽さが増している。夢の世界だから当たり前なのだけれど、それに付き合っていくことのしんどさとともに読み進めて行った。

ナゼナゼ問答も多数展開される。

“「しかし、雨は必ずやむものです」男がそう言った。
「ええ、そういえば」と私もようやくまともに答える。
「何故でしょう」
「さて」
「何故、降るんでしょうか」”

“ところで、ときどき考えるのだが、前進とははたして何だろう。
たとえば、陸上競技のあらかたは―――全てと言ってもいい―――人が前進するスピードを競い合っている。でなければ、人が前方に向けて放つ力を競い合っている。
何故、うしろではないのか。何故、人は後ずさりの速さを競わない?何故、人は工法への跳躍を鍛えない?何故、人は前方に向けてのみ砲丸や円盤や槍を投げる?
大体、人は放っておいても前へ進みたがる。それが当たり前だと信じて疑わない。”

そして真打ちは、ジャレという魔神の登場である。こいつは、騎士団長のように、むちゃくちゃな、しかしよく考えれば当を得て妙のコメントを発する。たとえば次のよう。

“「でも、アレな。モノホンと呼ばれてるのも、結局のところ三次元の写しな」”
これは絵画のことを言っている。

“「そうよ。魂は屁な」とジャレは言う。「逆に言うと屁は魂。交換してもまったく問題なし。屁をこくように魂をこくのも可能。魂を込めるように屁を込めるのも可能。」”
魂とは要は、気の流れであって、風のようなものだと、達観する。

一度、騎士団長と掛け合い漫才をやらせてみたくなった。

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by k_hankichi | 2017-07-20 22:53 | | Trackback | Comments(2)

地霊に導かれゆくこころ

第50回谷崎潤一郎賞を得たという小説『東京自叙伝』(奥泉光、集英社文庫)を半ばまで読んだ。江戸・東京にさまよう地霊が人や鼠、猫に憑りつき、歴史の荒波に揉まれたり、あるいは重大な事件を生み出していく張本人になっていく。

さまざまな事柄が憑りつかれた人や獣によって引き起こされ、それが次の時代の人に受け継がれたり、あるいは時を遡って別の記憶を呼び起こしていく。

最後まで読み切ることができないほどの分量で息が途切れたが、まあ、霊が思うがままに語る事柄だから、「完読せず、散らかしてそのままでもいいんじゃない?」と語尾を上げて終わりにする。

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by k_hankichi | 2017-07-17 08:57 | | Trackback | Comments(2)
『知性の顛覆』(橋本治、朝日新書)を読了。自己主張というものの意味やあり方について、ようやく腹落ちした。

“誰にでも「自己主張」だっだり「自己表明」が出来る。・・・(中略)・・・誰もがみんな自己主張をしたいーー「黙っていると自分が埋もれてしまう」ーーと思っているからなんだろうが、私はやっぱり自己主張というものの本来を、「社会の秩序を乱す不良のするもの」だと思っているので、いつそんなものが当たり前に広がってしまったのだろうと考えてもいる。考え方としては、「社会の持っていた強制力が落ちたか、あるいはなくなったから、自己主張の仕放題」ということになるのだろう。・・・(中略)・・・どうして「自分の自己」を主張したがる人が、「それぞれの違い」ではなくて、「みんなとおんなじ」を強調したがるのかという不思議である。そして、もしかしたらそれは不思議ではない。どうしてかというと、不良はあまり単独で存在しないからだ。”(「第一章 ヤンキー的なもの」より)

“「欲望を包む皮」は薄い方がいいということにもなるのかもしれないが、その皮が薄すぎると、中の「欲望」のあり方が透けて見えて、丸分かりになる。「下品」というのはそうなってしまった状態を言うのだが、そういうモノサシを使うと、「自己主張は下品だ」ということになる。「自己主張」というのは、よく考えてみれば、自分の「欲望」を押し出すことだから、あまりそんな風には言われないが、自己主張が強くなれば、事の必然として「下品」になってしまう。第一章で言った「“自分”を消す必要」というのは、「未熟ではだめだ」ということだが、自己主張を丸出しにした「不良」が下品だというのはそういうことで、「未熟」というものを野放しにしてしまえば、下品にしかならない。これは、身分制社会のあり方とは関係ない、社会的ソフィスティケイションの問題である。”(「第五章 なぜ下品になったのか」より)

そう考えると、自分はどんどん下品になってきているわけで、ヤンキーになっているとしても間違いではない。夜遅くや朝っぱらから公園でたむろして、ワアワア騒いだり、オートバイを乗り回しているのと変わりはない。

しゅん、としんみりとしてしまった。


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by k_hankichi | 2017-07-16 11:16 | | Trackback | Comments(2)
日曜日の新聞の読書欄で歌人の穂村弘さんが薦めていて、思わず買い求めた。穂村さん以外が紹介していたら間違いなく敬遠していただろう。マンガは、コマとコマの移り変わりが苦手だからだ。行間とでも言おうか。

『東のエデン』(杉浦日向子、ちくま文庫)。明治維新後の文明開化に晒される日本の日常を描いたもの。

とても面白く楽しめた。行間を読む必要が無かった。どうしてかそういうふうに出来ている。コマの移り変わりが自然でそこには必然性がある。すーっと心に吸われていく。

小津安二郎の映画はカット割りがしっかりしていて、お能の間合いのように観ているひとに違和感を覚えさせないとされていたが、あの感じに似ていた。

“歴史とは想像することだと、小林秀雄先生がカセットの中でしゃべってましたが、このマンガを見ていると本当にそれを実感する。知識や資料というのは手続きにすぎない。それらをいったんご破算にしてふくらんでいく想像力が。過去へ向かって未来的に先回りするんです。それはほとんど霊的な力で。それが私たちの中にわずかに残留している霊的端末子に働きかける。そうやって私たちは日向子に導かれて、あの時代の空気に鼻先から進入していく。”(赤瀬川原平による巻末解説から)

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by k_hankichi | 2017-07-10 07:09 | | Trackback | Comments(2)
島尾ミホが書いた『海辺の生と死』(中公文庫)を読んだ。奄美群島の加計呂麻島の風俗や、そこを訪れる旅芸人たちの姿、そして、島尾敏雄を慕ういくつかの手記は素晴らしかった。

この本の序文は島尾敏雄が書いている。そしてまた各篇の冒頭などに入っている挿絵は、息子の島尾伸三が描いていて、それはルドンやビアズリーを彷彿させるタッチだ。文庫本の外カバーの写真も息子によるもの。荒波を乗り越えた一家が総出で作り上げられたものなのだと感慨する。

“それにしても隊長さまは特攻の出撃直前というのにどうしてそんなに落着いていられたのでしょう。物静かな余裕に満ちた様子を、私は驚嘆の想いでみつめるばかりでした。それにくらべて私は悲しみをこんなにもあらわにして泣きくずれてしまって。取り乱してはならないと自分に言いきかせても、このかたはもうすぐ震洋艇もろとも敵の軍艦に体当たりなさるのだ。この声、この手、この身体も火薬とともに砕け散ってしまうのだと思うと、身も世もない悲しみがこみあげてくるのをどうしようもありませんでした。
今だけ、今のこのひとときだけが、私の目と手で確かめる事ができるのだと、私は隊長さまのからだを両手でしっかりと上の方からしごくように抱きしめて行ったのですが、足もとまできて靴の上にうっ伏すと、たまらなくなって泣きくずれてしまいました。
「ミホ、ほんとうに演習なんだよ。さあ、今夜はおそいからお帰りなさい。あしたの朝早く山田に手紙を持たせるからね。こんな所にいないですぐ帰るんですよ。いいね、わかったね、ほんとうにすぐ帰るんですよ」
隊長さまはやさしくあやすように話しながら、泣きじゃくる私を再び立たせました。”(「その夜」から)

『死の棘』とは別世界の愛と死の序章だった。しかしこれを別世界と云ってはならないのかもしれない。この世界があったからこその『死の棘』なのだ。

愛は別の愛を触発し、それは嫉妬をもたらし、そして嫉妬は永遠の愛を求めようとする。島尾夫妻の愛憎は、二人だけの世界に閉じていて、それは醜さとは隔絶している。美に向けて昇華する。

最近、日本の某俳優夫妻が赤裸々に人々に明かし語る愛憎劇あって、連日のワイドショーを賑わしているのだけれど、島尾の世界は比較にならぬほど純粋で全く次元が異なる。

珠玉になるものとならないものの違い、芸術になるものとならないものの違いがここにある。

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by k_hankichi | 2017-07-09 12:44 | | Trackback | Comments(0)
ベルンハルト・シュリンクの『階段を下りる女』(原題:Die Frau auf der Treppe、新潮クレストブックス)を読了。そこには無いと分かっていながらも、オーストラリアの美術館に、その絵を眺めに訪れたくなった。

表紙カバーの内折り側に、次のようなライプツィヒ国民新聞(Leipziger Volkszeitung)の書評が載っている。

“彼らの人生において何が実際に可能だったのかは、この機知に富んだ、やさしくてときおり悲しい小説では答えが出ないままだ。この本は「殻にこもった生活」、愛の不思議さ、年老いること、つかむことと手放すこと、回顧と出発について語っている。”

言い得て妙だ。

主人公の男は、曾て愛した女・イレーネのことを想いながら、自分の人生を振り返って次のように述懐する。

“いまでは年を取ってしまったが、それを嘆こうとは思わない。若者にはこれからの人生があるからといって、羨む気持ちもない。もう一度人生をやり直すなんてまっぴらだ。だが、彼らが背負っている過去が短いという点は、羨ましく思う。若ければ、過去をすべて見渡すことができる。振り返るたびにその意味が変わるとしても、過去に意味を与えることができる。いま、自分の過去を振り返ってみると、何が重荷で何が恵みだったのか、そもそも成功に価値があったのか、女性との出会いで何が得られ、何が拒まれたのか、もはやわからなくなってくるのだ。”

男にとっても、女にとっても、人生の黄昏を感じるようになるころ、再びにあらたな意味を掴むことに導いてくれるような作品だった。

それにしても、階段を下りるイレーネの絵を観てみたい。


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by k_hankichi | 2017-07-07 07:53 | | Trackback | Comments(4)

韓流ドラマへの憧憬

待ちに待った韓流ドラマが始まる。あの女優を観られると思うだけて心昂る。

彼女が出ている作品は、悲劇であろうとも清く感じられ、自分の周囲の空気まで綺麗になる。

彼女が発する言葉は、柔らかなマシュマロを次々と転がすようで、その音の振動はどんな世界をも美しいものに変える。

『師任堂(サイムダン)、色の日記』(2017年)。

中世の李氏朝鮮時代の女流画家、申 師任堂にまつわるドラマだ。

※サイムダンの肖像は韓国の5万ウォン紙幣にも用いられている。

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by k_hankichi | 2017-07-05 06:55 | | Trackback | Comments(0)
『精読 小津安二郎 ‐死の影の下に‐』(中澤千磨夫、言視舎)を読了。映画の中身を小説を読むように丹念に解き明かす、ということが出来るようになったゆえの精読とある。ビデオの登場によるものが大きいとしていて、たしかに本を読むかのように再生や巻き戻し、ポーズやコマ送りも出来るこの文明の利器がもたらした遣り様だ。

名作の数々が仔細な読み解きや、取材を通して行われていく様は、驚きを通り越して圧巻である。

精読の様は、映像の解析だけによるものではない。中澤氏は中国大陸の数々の場所を小津の日記を便りに訪れ、背景や足跡、遭遇しただろう出来事を調べ上げている。深さが違う。

『父ありき』、『宗方姉妹』、『麦秋』、『東京物語』に重点が置かれるが、ほぼ全ての作品について言及や解析がある。

僕は『宗方姉妹』をろくに観ていなかった(おそらく学生時代に京橋のフィルムセンターに足を運んだときくらいか)。『麦秋』は眺めていただけだった。

まだまた浅読みだということに気づかせてくれる凄い評論だった。

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by k_hankichi | 2017-07-04 07:31 | | Trackback | Comments(2)