音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です

by はんきち

カテゴリ:クラシック音楽( 581 )

CDショップを訪れて、ただ単に安かっただけで買い求めた音盤が予想に反して素晴らしいと、もうそれだけで嬉しくなる。吝嗇さというものは強欲なものだ。

ニコラウス・ア―ノンクールがベルリンフィルやアムステルコンセルトヘボウを振ってのブラームスの交響曲・ピアノ協奏曲全集はまさにそのひとつ。5枚組ボックスで千円一寸ということで、ジャケット表紙の指揮者の顔が、鬼のように怖い形相だから、これは粗製乱造の証なのかもと、おっかなびっくり。

一枚目はピアノ協奏曲第一番ニ短調 Op.15。僕がとても苦手にしていた曲だから、捨て鉢的に全く期待せずに聴き始めた。どうにでもなれ、だ。しかしそれが違うことがすぐに分かった。あまりに素晴らしくて、椅子に腰が貼りついたままになる。

ブラームスのピアノ音楽は、どのようなものであろうともある種真摯な哲学的考察とともに出来ているから真剣に聴かないとわからないと思っていたが、ブッフビンダーの演奏はそういう風に恐縮した緊迫感を持つ必要がなく、ただただ音の転がりが美しくて、珠玉という言葉はこのためにあるのかしらと思った。

1枚目でここまで期待が高まってしまうと、このほかの4枚をこれから聴いていくのが空恐ろしい。空恐ろしいけれども、吝嗇家は新たな境地を求めるべく、次に進めていくわけだ。

■曲目
● ピアノ協奏曲第1番ニ短調 Op.15
● 4つのバラード Op.10
■演奏
ルドルフ・ブッフビンダー(ピアノ)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、ニコラウス・アーノンクール
■録音:1998年(バラード)、1999年(協奏曲)、コンセルトヘボウ、アムステルダム
■音盤:Warner Classics 0190295975104

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※ジャケット写真にしては、顔が怖すぎる・・・。そんなに睨まないでくれ。
 


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by k_hankichi | 2017-07-24 00:29 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)
山田和樹が横浜シンフォニエッタを振ったCDを買い求めた。フランツ・シューベルトの交響曲第5番変ロ長調 D.485と、ヴァージャ・アザラシヴィリの「無言歌」が収められている。

このシューベルトはおっそろしく優しくて柔らかくて、厳しさとは無縁に聴き手にそっと寄り添うような演奏。いっぺんに気に入ってしまった。

特に素晴らしいのは、第二楽章。弦楽四重奏なのか?と一瞬耳を疑うような静けさと優しさに包まれている。

第三楽章も第四楽章も、こんなに機知と喜びに富んだ演奏は知らなかった。

もうひとつの発見は、グルジアの作曲家アザラシヴィリの「無言歌」。山田和樹が指揮を目指すきっかけになった曲だという。

抗いや争いなど、そもそも何の意味もなく、僕らはただただ生きていること自体、それが歓びなのだ、という気持ちになる。

こういう新たな喜びを発見すること自体が楽しくて、だから音楽というのは止められない。

■音盤:TOMATONE YOKOHAMA SINFONIETTA Live Vol.6
■収録:2015.1.29、フィリアホール、横浜
http://www.yokohama-sinfonietta.com/ja/tomatone/

■「無言歌」(Anatoly Nikitin, cello; Leningrad Chamber Orchestraによる)

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by k_hankichi | 2017-07-21 00:08 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)
だいぶん前のことだけれど、カラヤンが指揮したアダージョ系の楽曲集CDが流行していた時期があった。タイトルも『アダージョ』で数種類出ていて、僕ももちろんそのなかの1枚を持っていた。

それは耳を傾けているだけで心が鎮まり、透明さを通して永遠というものにすこし晒されるものだったのだけれど、いろいろな作曲家がとっかえひっかえ出てくるので、それぞれの曲想の違いに応じてシフトギアを少々調整しなければならないところがちょっと苦手でいつしか忘れ去っていた。

そんななか最近知ったのが、『サンクトゥス (Sanctus)』という音盤。タリス・スコラーズによるルネッサンス作曲家6人によるミサ曲から抜粋した11曲の「サンクトゥス」からなる。6人とはジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(イタリア)、ジョスカン・デ・プレ(フランドル)、ウィリアム・バード(イギリス)、ヨハンネス・オケゲム(フランドル)、ドゥアルテ・ロボ(ポルトガル)、ジョン・シェパード(イギリス)だ。

ルネッサンス期の楽曲はどれもが定旋律をしっかり持っていて、そこから派生する和声の美しさは、どこまでもどこまでも純粋。透徹なる世界は全て中世のものだからギアチェンジが不要でただ心身を任せていれば良い。

解説は、ちょっとビックリしたのだけれどフジテレビの軽部真一アナウンサーが書いていて次のように結んでいる。高校、大学と合唱部に所属していたそうで、合唱や和声への憧憬は深い。

“まさに、声の個性を抑えて、他人の声と自分の声を融合していく、その快感であった。一人一人の声が違った魅力を持つだけに、それを殺して一つに溶けあっていく瞬間は逆に何ともいえない歓びとなる。個性を主張することはもちろん大事、しかし、時には、他と交わることで、人間の声のすばらしさを実感できる。このアルバムを聴くこと自体、人間であって良かった、声を持っていて良かった、そんな“サンクトゥス(感謝)”の気持ちになれる、至福の時間だ。”

和声というもの。それは個を主張しすぎないことによって、逆に予想だにしなかった素晴らしい結果を出すという行為なのだ。

暴言罵声を身近の人に浴びせたり、自分は正しいだの主張ばかりしているどこかの政治家たちに是非とも聴かせたくなった。

■曲目(すべてサンクトゥス)
・ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ:「ミサ・プレヴィス」から
・ジョスカン・デ・プレ:ミサ曲「ナシェ・ラ・ジョイア・ミア」から
・ジョスカン・デ・プレ:ミサ曲「パンジェ・リングァ」から
・パレストリーナ:ミサ曲「アンスプタ・エスト・マリア」から
・ウィリアム・バード:「4声のミサ曲」から
・ヨハンネス・オケゲム:ミサ曲「オ・トラヴァイユ・シュイ」から
・パレストリーナ:ミサ曲「ニグラ・スム」から
・ドゥアルテ・ロボ:ミサ曲「ヴォクス・クラマンティス」から
・ジョン・シェパード:「西風のミサ曲」から
・ジョスカン・デ・プレ:「教皇マルチュルスのミサ曲」から
■演奏
合唱:タリス・スコラーズ、指揮:ピーター・フィリップス 
http://www.thetallisscholars.co.uk/
■収録
1980~1997
■音盤
ギンメル PHCP-20054 
https://www.gimell.com/

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by k_hankichi | 2017-06-30 06:20 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)

曇天に聴くバッハ

梅雨の曇天の朝に聴く曲は、ヴィクトリア・ムローヴァによるバッハのヴァイオリン協奏曲集。ピリオド奏法による溌剌とした息吹の演奏だ。

僕はバッハのこの協奏曲たちが実は苦手で、アンネ=ゾフィー・ムターの演奏で少しその斥力が緩和され、しかしそこからの前進がなかった。

ムローヴァの弦は粘り気がなく、しつこさとは無縁。かといって淡白ではなく、袖すり合う程度の縁で保たれている。ことさらに擦り寄られることが嫌な僕にはぴったりだ。無論こうまでなると、実はこちらから擦り合いにいきたいくらいなのだけれど、この空気はそれを自制させる節度に満たされている。

これから向かう出張先での会議のなかでも、きっと通奏低音のように鳴り響き、心を緩和させてくれることだろう。

■曲目
J.S.バッハ:
・ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 BWV.1041
・ヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調 BWV.1042
・ヴァイオリン協奏曲ヘ短調 BWV.1056
・ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲ハ短調 BWV.1060a
■演奏
ヴィクトリア・ムローヴァ(vn)
フランソワ・ルルー(ob)
ザ・ムローヴァ・アンサンブル
アラン・ブリンド、ローレン・クェネル(vn)
エーリヒ・クリューガー(va)
マヌエル・フィッシャー=ディースカウ(vc)
クラウス・シュトール(cb)
ロバート・オールドウィンクル(cemb)
マルコ・ポスティンゲル(fg)
■収録
1995年、アムステルダム
■音盤
フィリップス PHCP-1481

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by k_hankichi | 2017-06-26 06:39 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)
この春から、週末と云えば必ず電車や自動車による遠出の外出が入っていて、相当に草臥れていた。この週末は、初めて自宅でゆっくりと過ごした。

耳を傾けたのは、ミカラ・ペトリとキース・ジャレットによる、6つのリコーダー・ソナタ集(BWV1030~1035)。もともとはフラウト・トラヴェルソのために書かれた曲だそうだが、リコーダーで弾かれるそれは古楽器の様を呈していて、その素朴な音色に陶然となる。

ジャズプレイヤーとして名声を欲しいままにしているキース・ジャレットが弾くクラシックも素晴らしい。僕は『平均律クラヴィーア曲集第1巻』以来で、しかも、デュオでの演奏を聴くことは初めてだ。“ジャズセッション”という言葉がある訳だけれど、それを想像して聴き始めたら、全くそれは異なっていて、極めて端正なる佇まいで落ち着いて支えている。

この人には音楽というものの魂が宿っていて、それはカテゴリーに依らずに彼の心のなかに降臨し、その奥底が自然に呼応しているのだと思った。

ライナー・ノーツを読んでいたら、このチェンバリストは次のように語っていて、まさにさっき感じたことと同じで驚いた。

“私たちはどうも価値のある音楽を求めるよりも、言葉によって音楽を語ることに重きを置きがちのようです。確かに私たちは今こうして言葉を使っています。でも、そうした言葉は聴き手に頭で考えさせるためではなく、音楽へと導くために使われるべきなのです。頭で理解しようとすると、人は音楽を聴くことができなくなるものですから。私はバッハの音楽に、不必要なほど緻密な知的考察は加えたくないのです。”

■曲目
J. S. Bach: 6つのリコーダー・ソナタ
・ソナタ ロ短調BWV1030
・ソナタ ト長調BWV1031(原曲:変ホ長調)
・ソナタ ト長調BWV1032(原曲:イ長調)
・ソナタ ハ長調BWV1033
・ソナタ ト短調BWV1034(原曲:ホ短調)
・ソナタ ヘ長調BWV1035(原曲:ホ長調)
■演奏
ミカラ・ぺトリ(ソプラノ・リコーダー、アルト・リコーダー)
キース・ジャレット(チェンバロ)
■録音
1992.2.28, 29, 3.1、キース・ジャレット・ケイヴライト・スタジオ、ニュージャージー
■音盤
BMG BVCC-37649



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by k_hankichi | 2017-06-18 17:57 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)
先週来、相当に心身が疲弊していて、心を癒すというか耳が受け付けるのはマーラーの交響曲第8番しかなかった。疲弊しているときにマーラー!!、ということ自体は自分でも意外に思ったが、どの交響曲でも良いのではなく、たまたま8番だけが受け入れられた。曲想があれやこれやとごたごた錯綜し、わいわいといろいろな人たちが騒ぎながら、しかし神の啓示に向けて昇華していくという感じで、友人曰く、「この音楽はベートーヴェンのように真っすぐに進まずにモザイク状に感情が交錯するから、それは疲れた時の心の状態に近いからなのだろう」ということに頷いた。

そうして次第に心が平静になっていった。

自分の過去から現在のことを考えたりする余裕が生まれ、そういうなかでふと郷愁ということについて考えていたら、こんどは無性にバッハを聴きたくなった。といっても宗教曲やオルガン曲ではなく、またピアノ曲でもなく、欲しくなったのは無伴奏のヴァイオリンソナタとパルティータだった。

好きな演奏は何度か記載したが、今もそれはカール・ズスケと五嶋みどりで、もちろん厳しく自分と対峙し律したいときには、セルゲイ・ハチャトリアンが入り込んできた。

五嶋さんの演奏は、森の奥の木立の間から、その森全体の息吹のように静かに漏れ流れてくるようなもので、そのしみじみさといったら無く、そしてそこからは、誰もいない空間であろうともそこに一人存在していることは、それだけでも素晴らしいのだというある種の喜ばしさが伝わってきて、ただただ寡黙になった。

しかしそれは郷愁とは違った。

予てから良いと耳にしていたヴィクトリア・ムローヴァのバッハをちょっと試してみたくなり、少しだけ期待して手に入れた。そして大きな衝撃に包まれた。まさに僕が求めていた音楽だった。

緩急自在なる運びのなか、ひとつひとつの物事や人に触れることで、わずかながらテンポが揺れ動く。弦の響きの最後が、ふっと息を抜くかのように弱く小さくなって消えゆく感じが、なにか、遥か昔を思いやるかのよう。郷愁であるとか追憶とでも言おうか。はるか昔に親しんできた物事や場所、そして人々。それらにひとつひとつ気持ちを向かわせ、目線を遣り、そして心を通わせていく。

思い入れが深ければ深いほどに、ゆっくりとした流れになる。時には甘く切なかったり、砂糖菓子のように儚そうであったり、沈みゆく夕暮れのなかに歩く子供たちの姿のように美しかったりする。

ムローヴァの郷愁ともいえる場所や追憶のそこかしこを知りたくなった。

■収録:2007.3.18-19, 2008.10.20-22、Bolzano、イタリア
■音盤:ONYX 4040

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by k_hankichi | 2017-06-14 00:40 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)
先日買い求めた合唱の雑誌『ハンナ』(2017年6月号)のなかに合唱団の座談会記事があり、いま自分の心を沸かせているマーラーの交響曲第8番の演奏会に対しての準備状況が書かれていた。僕がようやく分かりかけてきたことがそこに記されていて、まさにそうなのだなと思った。

“初めてこの曲を歌ったときの印象ですが、村上春樹さんの小説を読んでいるときと似ているなと思いました。ストーリーに一貫性がなく、一見支離滅裂なようですが、理解して読むとか、起承転結がはっきりした中で楽しむのではなく、そこに書かれてある世界に没頭することによって言いたかったものが見えてくる、分かってくるということです。”(武蔵野合唱団・小田康介さん)

“この曲は圧倒的なオーケストレーションの中に展開されるソリスト8人と児童合唱を含めた3群のコーラスが、まるで絢爛豪華な宇宙のような作品です。冷静には聴いていられないほどの興奮を味わっていただきたいです。ものすごいピアニッシモもあれば、フィナーレは壮大な宇宙のようなフォルテッシモで終わります。”(同上・津久井竜一さん)

“ベートーヴェンのような論理的で弁証法的に構築された音楽と違い、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような音楽に感じました。でも世の中(の本質)というものはマーラーが書いたものに表されているのではないかと今では思います。”(栗友会合唱団・横山拓哉さん)

結局は万物の流転や宇宙の壮大さのなかに、かろうじて人間が存在しているということなのだ。

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by k_hankichi | 2017-06-11 06:05 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)
ほとんど聴いていなかったマーラーの交響曲第8番をこのあいだライヴで聴いて以来、その曲のCDを寝る前に静かな音で流し、仕事の行き返りでウォークマンでも聴いている。

この曲は不思議だ。

何がかといえば、それは哀しみに落ち込まないということ。マーラーの他の交響曲に必ずあるだろう哀愁や諦観は殆ど流れてこない。全身全霊、歓喜と賛美、アウフヘーベンの世界だ。

第一部。リヒャルト・ワーグナーの歌劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」の序曲とリヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲を足して二で割ったような豪華絢爛さ。その圧倒的なる音魂、音量には度肝を抜かれる。金管や弦が張り裂けんばかりに鳴り響き、合唱はそこにかぶせるかのようにグローリア、父なる主に栄光あれ、と叫びつつ終わる。宗教と人々の希望への歓喜が重ねる。気持ちは確かなのかと訊ねたくなるほどの一途さだ。

第二部も、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」の序曲とロベルト・シューマンの交響曲を足して二で割ったような朗々さ。落ち込んで萎れ掛けているような心境のときの今、それでいいんだよ、と慰められ、いつしかありがとう、という気分になる自然と血流が復活してくる。

途中から、聴き手を少々おっかない気持ちにさせようと、合唱が闇の声・地の声のように細切れの吐息で、ささやく(といっても大勢で囁くから心身の遣り場に困る)。怖がらせようとしているが、ちっとも怖くならないので、そのことにも恐縮する。雰囲気はやがてマーラーの交響曲第5番の第4楽章(アダージェット)の様相になる。しかし哀愁に引き込まれるわけではなく、タンホイザーとマイスタージンガーの夫々の朗々が袖を掴んで離さない。

常軌を逸してくるような高揚のなか、「クリスマス・オラトリオ」と「キラキラ星」をこれまた足して二で割ったような気分の旋律が過り、そうかと思えば、女声合唱は、ワーグナーの歌劇「ワルキューレ」なかで出てくる「ハイヤ・ハー」のような掛け声をかけてくる。

そうかと思えば、マリアを讃える博士役のルネ・コローはこれ以上晴れやかな歌声はなかろうかと思うほどの心地よさで語り掛ける。地声にこれほど自信を持てるテノールは居ないのではないか。そしてそのようななかに、交響曲第5番のアダージェットの情緒が流れ新鮮さを醸し出す。

マーラーファンの皆様には何といえば分からぬが、しかし聴き始めたら虜になり、そして聴き終われば毎回、何か大きな歴史に遭遇してしまったかのような余韻に浸り、曲想を想い辿ってしまう、いわば物語のよう。

ほかの人の演奏で聴いてみたいと思うものは、これまでバッハとシューベルトの楽曲が主だったのだけれど、どうしてかそこにこの宗教合唱交響曲が加わった。


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by k_hankichi | 2017-06-09 06:23 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(5)

ポルンベスクのバラーダ

謎解きのように出逢って、夜のしじまのなか、息を潜めて聴き入った。

チプリアン・ポルンベスクの「望郷のバラーダ」という曲だ。100年以上前のルーマニアの作曲家だそうだが、切々と紡ぎだされる、吐息とも、静かな唸りともとれるような、このメロディには言葉を失った。

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by k_hankichi | 2017-06-06 06:52 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)
昨日は聖霊降臨節(ペンテコステ)。マーラーはこの日に演奏することを意図して交響曲第8番変ホ長調を作曲したそうで、まさにその日にその曲を生で初めて聴く幸甚に恵まれた。

山田和樹指揮、日本フィルハーモニー。渋谷オーチャードホール。武蔵野合唱団と栗友合唱団の掛け合いは見事。「罪深き女」役の林正子は明るく素晴らしく、そして天空からを模して上層階から歌いかけた「栄光の聖母」役の小林沙羅の歌声はまさにそのもので恍惚となる。「マリアをたたえる博士」役の西村悟や、「瞑想の神父」の妻屋秀和の朗々にも感銘。

マーラーの全交響曲を三年かけて演奏するという偉業はほぼ終盤で、山田さんを始めとして皆さんの全身全霊がここに集結していることが、生み出される大音響とともに伝わってきた。100年少し前(1910年9月12日のミュンヘン博覧会)に初演されたときも、さぞや聴衆は度肝を抜かれたことだろう。

定期的なマーラー熱にまたうなされそうだ。

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by k_hankichi | 2017-06-05 06:24 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)