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  • くず餅の味わいどころから、さかしま、まで
    [ 2012-04-30 00:11 ]
  • そびえるスカイツリーに驚くのは何故なのか。
    [ 2012-04-29 22:53 ]
  • 小津の『浮草』・・・豪雨のなかの痴話喧嘩と、若尾文子の艶やかな魅力
    [ 2012-02-04 18:12 ]
  • ミッシャ・マイスキーによるシューベルトの“歌曲集”
    [ 2012-01-15 12:54 ]
  • 人生を紙コップだと思ってください、という意味の重み…『小さな「悟り」を積み重ねる』
    [ 2011-11-28 21:00 ]
  • ますます空腹に堪える『風味絶佳』(山田詠美)
    [ 2011-08-28 19:04 ]
  • 『選択の科学~コロムビア大学ビジネススクール特別講義~』("The Art of Choosing")
    [ 2011-06-12 11:32 ]

くず餅の味わいどころから、さかしま、まで

暖かくなってくると、くず餅が食べたくなる。実家に行く途中に、亀戸の船橋屋で、いつものくず餅を土産に買った。すると相方との間で、これまたいつもの会話が始まってしまった。

「くず餅のどこがどうして旨いの、ねろねろとさせて気味悪い」
「なにを言うのだ、くず餅は、あれが醍醐味なので、黒蜜にきな粉をまぶしてねろねろしてからでないと、何の意味も無いのさ」
「ぐにゃぐにゃして、なに、下品なひとの食い物?」
「下品ではない、これは下町の上品だ」
「黒蜜を皿から舐めるでしょ」
「残りの蜜を舐めるのが通である」
「餅も芋なのだか澱粉なのかわからないし」
「葛だ、葛の粉だ」
「屑?」
「いや違う」
「ういろうと同じでしょ、ういろうは嫌いだというくせに、どうして」
「あれとこれとは雲泥の差だ」

こんな会話をしたことを思い出しながら、家に帰って船橋屋のHPを読んでいたら、「葛粉」というのは、小麦でんぷんを地下天然水で15ヶ月発酵精製したものだと記してあった。

しまった、くず餅は、小麦粉だったのか…。さすればそれは、俺が天敵としていたういろうの兄弟?

僕は焦り、今度はWikiで「ういろう」を調べて安心した。

「米粉などの穀粉に砂糖を練り合わせ、蒸して作る。穀粉には米粉(うるち米、もち米)、小麦粉、ワラビ粉などが用いられ、砂糖には白砂糖、黒砂糖などが用いられる。」

そうだろうそうだろう、ういろうは米粉から、なのだ。だから、小麦粉からつくるくず餅は、断然異なるのだ。

いつしか、論理のすり替えが行われ、ユイスマンスの世界に陥っていく、われ。
 

by k_hankichi | 2012-04-30 00:11 | Trackback | Comments(0)

そびえるスカイツリーに驚くのは何故なのか。

今日は日帰りで実家との間を往復。東京の街道の喧噪を久々に味わいながらのドライブだった。ちょうど新大橋を渡ってちょっとしたところで、どーんと目の前に東京スカイツリーが出現。これには驚いた。

普段は、品川からのビルとビルの合間に佇む姿で、だからそのサイズは、指の節のなかに収まるくらいに縮んでいるから、感覚の相違がさらに驚きを倍加させている。

深川森下町が、材木業の営みの中心だったころに、こんな建物があったならば、全ての栄華がさらにここに重畳されて、もっと隆盛を続けていたのではないか、とまで思った。

遠景のときは空と地の間の霞のなかに埋もれて弱々しいが、近景では、その高さと曲線が量塊のように力強く圧倒する。この大きなギャップが、この塔が人に与える凄さの一つなのかもしれない。

そびえるスカイツリーに驚くのは何故なのか、の仮説。

by k_hankichi | 2012-04-29 22:53 | Trackback | Comments(2)

小津の『浮草』・・・豪雨のなかの痴話喧嘩と、若尾文子の艶やかな魅力

小津安二郎が大映で撮った唯一の映画、『浮草』(1959年、カラー)を観た。松竹でのほのぼのとした余韻が漂う作品とはすこし趣が異なり、人と人の生々しく激しい会話が入り混じる、とても感銘する作品だった。

舞台は伊勢志摩にある相生という街。ここを旅芸人の一座が12年ぶりに訪れる。座長は駒十郎(二代目中村鴈治郎)、その内縁の妻はすみ子(京マチ子)だ。

一座の公演の合間に、駒十郎は街の呑み屋のお芳(杉村春子)の家をなんども訪れる。彼女とその高校生になる子供、清(川口浩)に会うためだ。彼は清と将棋をしたり、釣りをしたりして、つかの間の安らぎを覚える。しかしそれに感づき嫉妬したすみ子は、一座の若い女芸者、加代(若尾文子)をそそのかして清をたぶらかせようとする。

このころ25歳ごろだったろう若尾文子の美しさと艶やかさは群を抜いていて、その色香が画面からふーっと漂ってくる。

さて、極めつけは豪雨のなか、道を隔てて睨みあう駒十郎とすみ子の罵り合いだ。豪雨に濡れる深紅の葉鶏頭の花のシーンのあと、つぎのようになる。

「この阿呆、ばかたれ、なにがなんじゃい、ええかげんに帰れ」
「なにがなんや」
「おのれなんぞの出しゃばる幕かい、すっこんどれ、・・・おのれ、あの親子になんの言い分があるんや、わいがな、せがれに会いに行って何が悪い、おなごにあうのが何が悪いんじゃい、文句あっか、文句、あったら言ってみい、阿呆」
「ふんっ、偉そうに、ゆうことだけはあ立派やな」
「なにいっ、このあま」
「ようもそんな口が利けるなあ、そんなことうちに言えた義理かあ」
「なんやと」
・・・このあと、さらに壮絶に続いていく。

小津の映画に、かつてこれほどまでの激しい対話があったことはない(と思う)。この雨の中の迫真は、黒沢の『七人の侍』や『羅生門』の壮絶なる闘いと比肩できる、映画史に残る雨の中の名シーンだと思う。

旅芸人の悲哀と、愛のひたむきさは、遠ざかる夜汽車の赤い後尾灯のように、心のなかに静かに沁み入る。

浮草 [DVD]

角川エンタテインメント

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by k_hankichi | 2012-02-04 18:12 | Trackback | Comments(2)

ミッシャ・マイスキーによるシューベルトの“歌曲集”

これまでミッシャ・マイスキーといえば、僕にはアルゲリッチとの共演(アルペジオーネソナタであるとかシューマンのピアノ五重奏曲)ばかりだった。そのほかの姿を知らないなかでダリア・オヴォラ(Pf)とのシューベルトの歌曲集(歌なし)とアルペジオーネ・ソナタのアルバムを聴きはじめた。

チェロは人の歌声に一番近いといわれている楽器だから、その代わりに弾かれるこれらの楽曲からは、歌詞が聞こえてくるような感じがする。ダリア・オヴォラは、じつに控えめに伴奏をしていて、だからチェロの歌が一層引き立つのかもしれない。

アルペジオーネ・ソナタのほうは、アルゲリッチとのような掛け合いは楽しめぬがその代わりに、鄙びた哀愁を味わうことができる。第3楽章も嵩じすぎることなく静かに終わる。

休日の昼下がりに、なにごともなく心を静かに鎮めさせる、そんな音盤だ。

曲の録音場所は、スイスのチューリヒ湖のほとりにあるRapperswil城ということであり、webで調べたら、美しい湖のほとりに建つその写真(http://static.panoramio.com/photos/original/96538.jpg)が出てきた。曲の趣にとても合う。

この写真を眺めていたら、学生時代のあてどない旅でチューリヒのユースホステル(YWCAだった)に泊ったことや、その湖を臨むトーマス・マンの家(チューリヒ工科大学の敷地内で「トーマス・マン資料館」になっている;Webはココ→http://www.tma.ethz.ch/)のしんみりした空気、そしてそのときの心もとない寂しさのことも併せて思い出した。

チューリヒ湖というのは、深く心を落ち着かせる透徹な何かがある場所なのかもしれない。

■SCHUBERT: SONGS WITHOUT WORDS
1. アルペジオーネ・ソナタ イ短調D.821
2. 歌曲集「美しき水車小屋の娘」~知りたがる男D.795-6
3. 「ヴィルヘルム・マイスターからの歌曲集」~ミニョンの歌D.877-4
4. 歌曲集「冬の旅」D.911~幻
5. 歌曲集「冬の旅」D.911~辻音楽師
6. 夜と夢D.827
7. 歌曲集「白鳥の歌」D.957~海辺にて
8. 音楽に寄せてD.547
9. ますD.550
10. 歌曲集「白鳥の歌」D.957~セレナード
11. 孤独な男D.800
12. 歌曲集「美しき水車小屋の娘」D.795~水車職人と小川
13. 野ばらD.257
14. 万霊節の連祷D.343
15. 君こそは憩いD.776
■演奏:ミッシャ・マイスキー(Vc), ダリア・オヴォラ(Pf)、Rapperswil城の騎士の間(Rittersaal), ザンクトガーレン、スイス、1996.1月
■音盤:DG 449 817-2

セレナーデ~マイスキー/シューベルト名曲集

マイスキー(ミッシャ) / ポリドール

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by k_hankichi | 2012-01-15 12:54 | Trackback | Comments(2)

人生を紙コップだと思ってください、という意味の重み…『小さな「悟り」を積み重ねる』

友人が薦めていたアルボムッレ・スマナサーラ僧による書『小さな「悟り」を積み重ねる』(集英社新書)を読んだ。これはたいへん重要なことを伝えようとしている。うまくいかないとすぐに人のせいや境遇(と持っている力)を言い訳にしてしまう自分のことが、だいぶん恥ずかしくなった。友人も文言を引用していたが、僕も以下に記して、記しながら噛みしめて肝に入れたいと思った。なむ~。

・人の生きることの悩み、不安、迷いのすべては、この世を錯覚して見るから起こるものです。
・「自我は幻覚である」と納得できれば、どんな逆境にも負けない強者になれるのです。
・「人生を紙コップだと思ってください」…いったん使われると、それで終わり。
・私たちにできることは、自分がやらなくてはいけないことを、精一杯、努力することです。失敗か、成功か、という先のことを気にして、人生にブレーキをかけてはならないのです。
・仏教でいう中道とは、両極端にあるAとBを超越した道なのです。単純に真ん中にある中間の道ではなく、超越の道なのです。(→注。プログレッシブ・シンキングということを唱えている。)
・人の悩みの多くは、他人と比べて自分の能力やモノやお金や名誉が「足りない」と思うことから起こるものです。
・迷ったときの選択はどちらに行ってもかまわない。…「生きる」という根本から見れば、どちらの人生も実はさほど差がないのです。
・「自分すら頼りにならない」と思っていれば、自分をがんじがらめにしている固定観念から解放されて柔軟な対応ができます。そうなると失敗も当然少なくなります。
・自分のものにしたい、欲しいという感情を私たちは愛と言い換えているにすぎません。
・仏教の修行は、自由のない人生そのものから脱却することを、解脱という最終のゴールとしてめざすものです。…解脱するまでの間にどれだけの小さな達成感を重ねられるかが、「人生の値打ち」を決めるのです。
・逆境という壁はその人本来の力をもってすれば解決できるものなのです。

小さな「悟り」を積み重ねる (集英社新書)

アルボムッレ・スマナサーラ / 集英社

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by k_hankichi | 2011-11-28 21:00 | Trackback | Comments(2)

ますます空腹に堪える『風味絶佳』(山田詠美)

山田詠美の『風味絶佳』(文芸春秋刊)を読んだ。この週末、体調を崩し、形になるものを何も食うことができない状態だったので、せめて旨い物の話でも読んでみようと寝転びながら読み始めて、思わず佇まいを正してしまった。

実は山田詠美の小説を読むのも初めてで、彼女が何者かも知らず、この本は、吉田健一の旨いものシリーズのような食道楽系のエッセイ本かと思って買ってあったのだった。

“私には、太平洋につながるでっかい庭がある。それなのに、やり直すべき初恋は、もはや、ない。”

こう終わる短編『海の庭』の上手さには舌を巻いた。離婚した母親とともにその実家に戻った日向子は、母親の初恋の相手作並君との間に入りながら、そのふたりが初恋の気持ちをいまも持ち続けていることに、静かに嫉妬していく気持ちを描いていく。

そしてそれに続く短編『アトリエ』は、子供を身ごもった妻、麻子のもつ不安な気持ちを受け止め尽くしてやれなかった裕二の悔い改める気持ちとともに、中原中也のように終わるもので、それもまた絶妙だった。

“私は、麻子を抱きしめました。いつのまにか泣いていたのでしょう。彼女は、私の涙のひと粒ひと粒を吸い取って行きます。私は、されるままです。自分の身が空になって行くのを感じます。ゆんゆんゆんゆんゆんゆん。また、どこかで、あの鳥が鳴いています。”

旨い物、旨い料理の数々が織り込まれるこの短編集は、味だけではなくて、人生の味においてもさまざまで、そういうものをまだまだ知らぬ自分は、ますますその空腹に堪えるのだった。

風味絶佳

山田 詠美 / 文藝春秋

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by k_hankichi | 2011-08-28 19:04 | Trackback | Comments(4)

『選択の科学~コロムビア大学ビジネススクール特別講義~』("The Art of Choosing")

自分がなんだか聡明になったかのように感じる書に出会った。『選択の科学』(原題"The Art of Choosing"、シーナ・アイエンガー著、文芸春秋刊)。率直でありかつ事例に基づく検証考察が重ねられ明快だから、自分まで頭が良くなったかのように感じるのかもしれない。

著者はコロムビア大学ビジネススクール教授で、「選択」に関する研究を行っている。インド系アメリカ人の彼女は、幼いころ目に疾患が発見され高校に上がるころには全盲になっていたが、そういうハンディキャップを抱えながらペンシルバニア大学(ウォートン校)、スタンフォード大学で社会心理学を専攻していった。シーク教徒であるがゆえに両親や教派から、さまざまな戒律を守ること、そして服従を課せられてきた彼女は、アメリカ合衆国の共通語でもある「選択」ということの意味を、ことさら深く考えることになり、そしてそれを解明していった。この書はこういった研究を分かりやすく説明するとともに、自分とはいったい何なのだろうか、ということを客観的に知らしめてくれるようだ。

・なぜ選択には大きな力があるのか。
・選択を行う方法は、人によってどう違うのか。
・出身や生い立ちは選択を行う方法にどのような影響を与えるか。
・なぜ自分の選択に失望することが多いのか。
・選択というツールをもっとも効果的に使うには。
・選択肢が無限にあるように思われるとき、どうやって選択すればよいか。
・他人に選択をゆだねたほうがよい場合はあるか。

次のような記載は当を得ていてずきんとくる。

「人は自己像を形成し、表明するにあたって、他人にも同じ自己像を持ってもらいたいという欲求を持っていることを、この研究は示している。他人との共通項は見つけたいが、まねっこはしたくない。この欲求はあまりにも強いため、ときにわたしたちは「誤った」印象を与えないように、本心では望んでいない行動を取ることさえある。だれかと一緒にいるときのわたしたちは、愉快だが目立ちたがり屋ではなく、知的だがこれ見よがしではなく、人当たりはいいが自分の意見もしっかり持った人物として見られたいと思っている。わたしたちはみな、自分は最良の特質だけを備えていると思っているが、どうすればそれを世間にわかってもらえるだろう?」

「わたしたちは意識的にであれ、無意識にであれ、自分の人となりをできるだけ正確に見せるように、生活を組みたてる傾向にある。ライフスタイルに関する選択は、わたしたちの価値観か、少なくとも他人に自分の価値観として認識させたいものを明らかにすることが多い。」

「「完璧な自己」という彫像を引きずり下ろせば、アイデンティティが静物ではなく、動的なプロセスだということがはっきりするだろう。さまざまな決定を通して彫像を掘り、削ることが、自分自身を作る。わたしたちは選択の結果だけでなく、選択の進化を通して自分探しをする彫刻家なのだ。発想を変えて、選択が流動的なプロセスであることを受け入れれば、選択は、なりたくない自分をたたき壊す破壊の力ではなくなり、わたしたちを解き放つ、継続的な創造活動になるのだ。わたしたちはいま意味をなす選択、いま置かれている社会的状況の中で自分の必要を満たすような選択を行わなければならない。わたしたちの選択は、他社の選択といつも結びついている。そして他者の目に映る自分は、内なる想像上の完璧な自分ではなく、これまでとこれからの選択の積み重ねとしての自分なのだ。」

僕らは、自分自身の考えに過去から現在にかけて無意識なレベルで変化があって、それを他者から問われたようなときに、自然と辻褄を合せる説明をしてしまうときがあるようで、それをずばりと言い表す次のような記載にも、なるほどなあとうなづく。

「どうやらわたしたちは、過去の感情を思い出すのも、将来の自分の感情を言い当てるのと同じくらい、下手なようだ。わたしたちは自分自身が一貫性のある、分かりやすい人間だと思いたいという欲求を持っているため、自分の感情や意見について、意味のある物語を組み立てるのだ。・・・わたしたちは自分の将来の感情を予測するのも他人の感情を予測するのも基本的に同じ方法でやる。こうした予測は一見、正しいように思われても実は都合のよい作り話に過ぎない。このようにしてわたしたちは、一貫性に欠けることの多い、本当の気持ちや好みのギザギザの端を滑らかにしていく。」

そして言う。

「わたくしは自分が何者であるかを知るために、選択するのだ。」

この書は、英Financial Timesの2010 Business Book of the Yearの最終候補(6冊のshort lists)に残り、また、Amazon Best Books of 2010(Business & Investing分野の第3位)になったそうである。アメリカ合衆国の人々にも、このような良識がまだ残っているんだなあと感じ、「この国への信頼を棄てないという選択」もしてよいのかもしれないなあと思うのだった。

☆☆☆☆☆

選択の科学

シーナ・アイエンガー / 文藝春秋

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by k_hankichi | 2011-06-12 11:32 | Trackback | Comments(2)