音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です

by はんきち
CDショップを訪れて、ただ単に安かっただけで買い求めた音盤が予想に反して素晴らしいと、もうそれだけで嬉しくなる。吝嗇さというものは強欲なものだ。

ニコラウス・ア―ノンクールがベルリンフィルやアムステルコンセルトヘボウを振ってのブラームスの交響曲・ピアノ協奏曲全集はまさにそのひとつ。5枚組ボックスで千円一寸ということで、ジャケット表紙の指揮者の顔が、鬼のように怖い形相だから、これは粗製乱造の証なのかもと、おっかなびっくり。

一枚目はピアノ協奏曲第一番ニ短調 Op.15。僕がとても苦手にしていた曲だから、捨て鉢的に全く期待せずに聴き始めた。どうにでもなれ、だ。しかしそれが違うことがすぐに分かった。あまりに素晴らしくて、椅子に腰が貼りついたままになる。

ブラームスのピアノ音楽は、どのようなものであろうともある種真摯な哲学的考察とともに出来ているから真剣に聴かないとわからないと思っていたが、ブッフビンダーの演奏はそういう風に恐縮した緊迫感を持つ必要がなく、ただただ音の転がりが美しくて、珠玉という言葉はこのためにあるのかしらと思った。

1枚目でここまで期待が高まってしまうと、このほかの4枚をこれから聴いていくのが空恐ろしい。空恐ろしいけれども、吝嗇家は新たな境地を求めるべく、次に進めていくわけだ。

■曲目
● ピアノ協奏曲第1番ニ短調 Op.15
● 4つのバラード Op.10
■演奏
ルドルフ・ブッフビンダー(ピアノ)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、ニコラウス・アーノンクール
■録音:1998年(バラード)、1999年(協奏曲)、コンセルトヘボウ、アムステルダム
■音盤:Warner Classics 0190295975104

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※ジャケット写真にしては、顔が怖すぎる・・・。そんなに睨まないでくれ。
 


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# by k_hankichi | 2017-07-24 00:29 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)
友人から、こんな本が出とるぞ、と連絡を受けて早速に買い求めて読了。『往復書簡 初恋と不倫』(坂元裕二、リトルモア社)。「不帰の初恋、海老名SA」、「カラシニコフ不倫海峡」の二篇からなる。演劇の脚本だということに読んでいる途中でようやく気付いた。

始めの作品「不帰の初恋、海老名SA」は、本厚木中学校の一年次の男女クラスメート間のメール。中学時代の短いやりとりは転校によって途切れ、社会人になってからのやりとりに続いていく。そしてメールでのやりとりは、ダイアローグ、対話という次元に高まっていく。

初恋というものは、初めて口にした砂糖菓子のように貴重で、でもちょっと力を加えただけで脆く崩れおちてしまう。崩れそうで崩れないギリギリの線を坂元さんの脚本は走っていく。

どのように人を愛そうとしても初恋の相手というものは常に頭や身体につきまとうもので、そういうことを思いながら描いている。出てくる事象のぞれぞれについての触れ方は、そっといたわるような繊細さで、がさつさとは無縁。

さて、エピソード的な話題をここで挟む。ダイアローグのなかには、本厚木から自転車で走って東名高速の海老名SA(サービスエリア)でラーメンを食べる、というようなシーンがある。これはまさに地元ネタで、驚いて思わず眼鏡がずり落ちた。

このサービスエリアはとても立派で、海老名メロンパンなどでも有名なのだけれど、実は、外から歩いてアクセスできる出入り口がある。そして近隣の人たちの憩いの場にもなっている。もちろん僕や家人、知人たちも何度も訪れ、舌鼓を売ったり、お土産を買い求めたりしていた。自分の記憶や軌跡、経験と交錯し、対話に尚更に親近感が沸く。

二篇目の「カラシニコフ不倫海峡」は、妻を亡くした男に、いきなり或る女が接触してくる筋書きだ。その理由は、メールのやりとりを読み進めて行くうちにわかるのだけれど、一見無関係な二人が少しづつ近寄っていくその按配が、じりじりするほどいじらしく、まさにだからこれがドラマなのだと知る。好いてしまった二人の関係は、どこまでも純化され、天に昇っても繋がっていく。

人と人の会話が真の対話に変わっていく、血の通った心と心の対話に昇華していく。それを同時進行的に体感させるのが坂元さんの素晴らしさで、それはまさに演劇の境地なのだと分かった。彼のドラマが、どうしてあんなに高い質なのかを改めて分からせる作品集だった。

こんどはやっぱり演劇を観に行かなくちゃいけない。
 

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# by k_hankichi | 2017-07-23 00:13 | | Trackback | Comments(2)
ブログ友人が読まれたと聞き、やにわに僕も買い求めて読了。『アノニム』(原田マハ、角川書店)。

アートの持つ力、世界を変えていく底力について、この作品はとても清涼な風とともに伝えてくれた。

ひとりのアーティストが次のように皆に対して語るところでは、ちょっと鳥肌がたつほどの爽快感が得られる。

“おれたちひとりひとりは、確かに世界の片隅のちっぽけな人間だ。
だけど、おれが、そして君たちが新しい表現を生み出さないと、世界中に伝搬する波を作れないと、誰が言うことができるだろう?
おれたちには何もない、だからこそ、おれたちにはすべてがある。おれたちは可能性のかたまりなんだ。
いまこそ、叫ぼう。一緒に進もう。そして生き抜こう。
きっと、おれたちの目の前で、世界へのドアが開くはずだ!”
(「Saturday October 7 12:00PM」より)

絵を売り買いするオークションは、いわば経済行為の極地のような競りの世界。その実態に対して屹立するかのごとく存在するのが芸術という創造、創作行為。物欲そして自己満足を希求する経済世界と、芸術という生を希求する精神的な世界は、その起源からして対立している構図なわけで、極論すると悪と善、という次元まで到達しうる。

しかしその一見二律背反しているところから、全く予想だにしなかった解が得られるのだ、というこの小説の落としどころが、憎らしいほどに爽やか。

読了してカバーを外してみると、本の表表紙と裏表紙、そして背までが一連で繋がった1枚の絵で、それはジャクソン・ポロックの「Nubmer 1A」。油彩画のカンバス地の凹凸感をそのまま浮き出させている凝った装丁。改めてここで僕は唸り声をあげた。

究極の暑気払いだった。

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# by k_hankichi | 2017-07-22 11:40 | | Trackback | Comments(2)
山田和樹が横浜シンフォニエッタを振ったCDを買い求めた。フランツ・シューベルトの交響曲第5番変ロ長調 D.485と、ヴァージャ・アザラシヴィリの「無言歌」が収められている。

このシューベルトはおっそろしく優しくて柔らかくて、厳しさとは無縁に聴き手にそっと寄り添うような演奏。いっぺんに気に入ってしまった。

特に素晴らしいのは、第二楽章。弦楽四重奏なのか?と一瞬耳を疑うような静けさと優しさに包まれている。

第三楽章も第四楽章も、こんなに機知と喜びに富んだ演奏は知らなかった。

もうひとつの発見は、グルジアの作曲家アザラシヴィリの「無言歌」。山田和樹が指揮を目指すきっかけになった曲だという。

抗いや争いなど、そもそも何の意味もなく、僕らはただただ生きていること自体、それが歓びなのだ、という気持ちになる。

こういう新たな喜びを発見すること自体が楽しくて、だから音楽というのは止められない。

■音盤:TOMATONE YOKOHAMA SINFONIETTA Live Vol.6
■収録:2015.1.29、フィリアホール、横浜
http://www.yokohama-sinfonietta.com/ja/tomatone/

■「無言歌」(Anatoly Nikitin, cello; Leningrad Chamber Orchestraによる)

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# by k_hankichi | 2017-07-21 00:08 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)
吉田篤弘の小説『モナ・リザの背中』(中公文庫)を読了。夢物語を扱ったとても長い作品だった。『不思議の国のアリス』のように場面が次々と移り変わり(もちろん夢のなかの出来事だから)、さらに理不尽さが増している。夢の世界だから当たり前なのだけれど、それに付き合っていくことのしんどさとともに読み進めて行った。

ナゼナゼ問答も多数展開される。

“「しかし、雨は必ずやむものです」男がそう言った。
「ええ、そういえば」と私もようやくまともに答える。
「何故でしょう」
「さて」
「何故、降るんでしょうか」”

“ところで、ときどき考えるのだが、前進とははたして何だろう。
たとえば、陸上競技のあらかたは―――全てと言ってもいい―――人が前進するスピードを競い合っている。でなければ、人が前方に向けて放つ力を競い合っている。
何故、うしろではないのか。何故、人は後ずさりの速さを競わない?何故、人は工法への跳躍を鍛えない?何故、人は前方に向けてのみ砲丸や円盤や槍を投げる?
大体、人は放っておいても前へ進みたがる。それが当たり前だと信じて疑わない。”

そして真打ちは、ジャレという魔神の登場である。こいつは、騎士団長のように、むちゃくちゃな、しかしよく考えれば当を得て妙のコメントを発する。たとえば次のよう。

“「でも、アレな。モノホンと呼ばれてるのも、結局のところ三次元の写しな」”
これは絵画のことを言っている。

“「そうよ。魂は屁な」とジャレは言う。「逆に言うと屁は魂。交換してもまったく問題なし。屁をこくように魂をこくのも可能。魂を込めるように屁を込めるのも可能。」”
魂とは要は、気の流れであって、風のようなものだと、達観する。

一度、騎士団長と掛け合い漫才をやらせてみたくなった。

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# by k_hankichi | 2017-07-20 22:53 | | Trackback | Comments(2)

卓球に賭けた日々を想う

昨晩は、大学時代の友人らと卓球バーにて同期会。酒を飲み食事をしながら、卓球ができるというダイニング。

半信半疑で訪れたら、しっかりした正真正銘の卓球場で、若き日々の記憶と楽しみの思い出が次々とよみがえる。

友人たちのプレイスタイルは今も変わらず、これには本当に驚いた。

アキレス腱の一つや二つが切れるかと思ったが大事に至らずに帰還。

弱者のスポーツと虐げられながらも頑張った日々の気概は、いまの仕事にも役立つかもしれない。

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# by k_hankichi | 2017-07-19 20:31 | 街角・風物 | Trackback | Comments(3)

天変地異に晒されて

最早梅雨はどこにあるのかと思うほどの暑い毎日。しかし朝晩は雷雨の応酬に見舞われ、自然が創りだすパワーの無尽蔵さに驚嘆する。

大量の雨は山野を切り崩し、濁流とともに生きとし生けるものを、怒濤の如く飲み込み消し去る。

雷雨はついに送電網を絶ちきり、日々の生活のなかに全く遠慮もなく切り込んでくる。

こういったときに、はっきりと僕らの社会というものが人間たちの手前勝手でもって築き上げられたことを思い知る。

思い知れども、新聞テレビなどの報道は、自然が我々に悪さをしているという論調口調で、「どうにかしてくろコノ狂った自然どもめ」「人々を飲み込んでコンチクショウ」、というようになっている。

我々は如何に傲慢にこの地球上に社会と名のつく仕掛け、インフラという名の魑魅魍魎を造っているのかを、まず最初に表明すべきで、「すみませんでした、自然さま、われわれ向こう見ずにも傲慢でした」「まず始めにこれをお詫びします」と言わなければならない。

自然の猛威に対しての謙虚さがどれだけあるのかが、これから未来の人類の存続の有り無しに懸かっている。2011.3.11だけでなく、全ての出来事はそういうことの因果応報。

神を崇めることでしか、心の救いはない。そしてそれも「救われた気がする」だけで、自然は何事をも遥かに超越する。超越し続けて何も態度を改めず、何も語ることもない。

■何事もないかのような渋谷。
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# by k_hankichi | 2017-07-18 17:05 | 社会 | Trackback | Comments(4)

地霊に導かれゆくこころ

第50回谷崎潤一郎賞を得たという小説『東京自叙伝』(奥泉光、集英社文庫)を半ばまで読んだ。江戸・東京にさまよう地霊が人や鼠、猫に憑りつき、歴史の荒波に揉まれたり、あるいは重大な事件を生み出していく張本人になっていく。

さまざまな事柄が憑りつかれた人や獣によって引き起こされ、それが次の時代の人に受け継がれたり、あるいは時を遡って別の記憶を呼び起こしていく。

最後まで読み切ることができないほどの分量で息が途切れたが、まあ、霊が思うがままに語る事柄だから、「完読せず、散らかしてそのままでもいいんじゃない?」と語尾を上げて終わりにする。

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# by k_hankichi | 2017-07-17 08:57 | | Trackback | Comments(2)
『知性の顛覆』(橋本治、朝日新書)を読了。自己主張というものの意味やあり方について、ようやく腹落ちした。

“誰にでも「自己主張」だっだり「自己表明」が出来る。・・・(中略)・・・誰もがみんな自己主張をしたいーー「黙っていると自分が埋もれてしまう」ーーと思っているからなんだろうが、私はやっぱり自己主張というものの本来を、「社会の秩序を乱す不良のするもの」だと思っているので、いつそんなものが当たり前に広がってしまったのだろうと考えてもいる。考え方としては、「社会の持っていた強制力が落ちたか、あるいはなくなったから、自己主張の仕放題」ということになるのだろう。・・・(中略)・・・どうして「自分の自己」を主張したがる人が、「それぞれの違い」ではなくて、「みんなとおんなじ」を強調したがるのかという不思議である。そして、もしかしたらそれは不思議ではない。どうしてかというと、不良はあまり単独で存在しないからだ。”(「第一章 ヤンキー的なもの」より)

“「欲望を包む皮」は薄い方がいいということにもなるのかもしれないが、その皮が薄すぎると、中の「欲望」のあり方が透けて見えて、丸分かりになる。「下品」というのはそうなってしまった状態を言うのだが、そういうモノサシを使うと、「自己主張は下品だ」ということになる。「自己主張」というのは、よく考えてみれば、自分の「欲望」を押し出すことだから、あまりそんな風には言われないが、自己主張が強くなれば、事の必然として「下品」になってしまう。第一章で言った「“自分”を消す必要」というのは、「未熟ではだめだ」ということだが、自己主張を丸出しにした「不良」が下品だというのはそういうことで、「未熟」というものを野放しにしてしまえば、下品にしかならない。これは、身分制社会のあり方とは関係ない、社会的ソフィスティケイションの問題である。”(「第五章 なぜ下品になったのか」より)

そう考えると、自分はどんどん下品になってきているわけで、ヤンキーになっているとしても間違いではない。夜遅くや朝っぱらから公園でたむろして、ワアワア騒いだり、オートバイを乗り回しているのと変わりはない。

しゅん、としんみりとしてしまった。


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# by k_hankichi | 2017-07-16 11:16 | | Trackback | Comments(2)
出張で朝の連続ドラマ『ひよっこ』が観られなかった。毎日の元気の素なので、結構シンドイ一週間だった。

ようやっと録画を観終える。今週は「恋、しちゃったのよ」というサブタイトル。7月14日の放映は、慶応大学の学生、島谷純一郎(竹内涼真)と、矢田部みね子(有村架純)が、東京タワーや大学キャンパスにデートする場面。

相手のありのままの人間としての姿が好きなのだ、と互いに語り合う場面に感動するとともに、そのバックグラウンド音楽がとても良かった。不安なる精神のざわめきが現代音楽的なピアノ管弦楽で奏でられ、心許なく研ぎ澄まされた気持ちの昂ぶりが重なるよう。

このドラマはストーリーだけでなく、主題歌や、昭和の歌謡曲、そしてBGMも一級品で、だから猶更素晴らしい。

■ピアノ管弦楽のシーン。7/14(金) 8:05~8:06。
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■珠玉の挿入曲の一つをギターで弾くバージョンを見つけ、これにも感銘した。

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# by k_hankichi | 2017-07-15 13:00 | テレビ番組 | Trackback | Comments(0)