2017年 11月 16日 ( 1 )

『グレン・グールドといっしょにシェーンベルクを聴こう』(渡仲幸利、春秋社)を読了。これは、音楽史とグレン・グールドという人の思想にまったくもって僕が不勉強だったことが分かり、それとともに、とってもシェーンベルクの曲が聴きたくなった。

“けっきょく、グールドがえぐり出したかったものは、バッハを相手にしてもシェーンベルクを相手にしても、いずれの場合も作曲力だ。たぶん、その観点からバッハに対抗できる作曲家といったらシェーンベルクぐらいのものだとまで、彼は考えていたのだ。そうやって、バッハの楽譜から、歴史が汚した黄ばみ、手垢、シミを一掃し、その一方でシェーンベルクの楽譜が、同時代人たちによる偏見のなかから救出され、もはや、グールドとシェーンベルクの巻き込み合いは、疑うことができない。”(「プロローグ」から)

“自分も音楽も徹底して衣を剥がされる設定、それが彼のいう「孤島」なのである。(中略)さて、その「孤島」へ持っていきたいレコードの一つに、グールドはギボンズの讃美歌に次いでシェーンベルクを選んだ。つまりそのとき彼は、シェーンベルクにそれまでだれも聴いたことがなかったなにかを聴きとっていたことを、そっと告白したのである。”(「美しい音楽」から)

“シェーンベルクの音楽の美しさを味わってみたいと思ったら、自室で書きものやら難しい計算でもしながら、少しボリュームをしぼりぎみにしてBGMとして流しておけば一番である。不思議なことに、聴くともなく机上の仕事に没頭したそのときに、これまでに憶えのないほど感動的な音楽をとらえていることが多い。ぼくが、グレン・グールドの弾くシェーンベルクのピアノ曲の清澄さが、ほんとうに聴こえたと確信したのも、そういうときだった。ピアノと弦楽四重奏と語り手のための<ナポレオン頌歌>は、調性的な焦点をあちこちにもった、シェーンベルク晩年の重要作品であるにもかかわらず、あの表情たっぷりの激しさがなんともいやな曲だった。が、それがあるときまったくちがって聴こえてきた。このときもやはり、ぼくは別のことに夢中でいた。”(「BGMの魂」から)

“グールドのピアノ演奏で聴く、シェーンベルクの作品十一、作品二三、作品二五といった独奏曲にしてからそうだ。これらは審美的に澄み切っている。だれのためにも弾かれていないこれらは、ぼくたちに、こっそり聴くことを望んでいるように思われる。聴きたい者がいたならば、その者はだれにも悟られることもなく、ひとり、こっそりと聴いてほしい、と。ひとのためには弾けないほど、ひとと並んで聴くには耐えられないほど、深く降りていく音楽体験なのだから。”(同上)

“グールドのシェーンベルクに耳を奪われるかとうかは、いま言ったバッハを聴く聴き方を保持することにかかっている。グールドが弾くシェーンベルクのピアノ独奏曲集をBGMに流しておき、作品二五<ピアノ組曲>に来てはっと耳をそばだてるチャンスをつかめたならば、以降、シェーンベルクは聴こえてくるだろう。一回性が、たえず未来において反復されていくだろう。反復の意志は、いまこのときにおいて、未来の域で生じている。”(「エピローグ 反復、かけがえのないものへ」から)

こういう緻密で、しかも深い造詣に基づく音楽評論に久々に触れて、とても清々しい夜になった。
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by k_hankichi | 2017-11-16 22:34 | | Trackback | Comments(4)

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