2017年 09月 04日 ( 1 )

この週末に、グレン・グールドの映画『グレン・グールド Hereafter』をようやく観た。長らく気になっていたから、その感慨はひとしお。

やはり、グールドがゴルトベルク変奏曲を弾くシーンは印象深い。後傾した、木の枠だけでできたクッションの無い低い椅子に座り、手首は鍵盤よりもずっと低くにある。時には鍵盤に顔をつけるほどになったりしながらの姿は、写真で観て想像していたときよりも遥かに低位置で驚く。湖のなかに落ちて沈みそうになりながら、水面に浮かんでいるピアノに縋りつきそうになりながら弾くかのよう。

このとき思ったのは、グールドは、頭の中に既に音楽が出現していて、それを指先から迸りだしているということ。思わず出てしまうハミングはそのしるしである。

映像のなかのグールドは、長閑なカナダのカントリーサイドにも出没する。僕は、実は、そのシーンに一番心を打たれた。

カナダの水量豊かな緩やかな傾斜の滝を前にするシーンは極めて印象的だ。その奔流の音をバックグラウンドに音楽を重ね合わせてハミングし、それを楽しんでいる。この場所はどこなのだろうか。とても美しく、いつか必ず訪れたいと思った。

グールドは映画の最後にバッハの『フーガの技法』について次のように語る。

“バッハはテクニカラーを使わずに、このフーガを作曲したんだ。灰色だけで構成された色調のパレットが無限に続いていく。僕は灰色が大好きだ。シュヴァイツァーはこのフーガを、「ひと気がなく厳格で色も光もない不動の世界だ」といった。彼の言葉は、この最後のフーガに対する僕の気持ちをよく表している。このフーガが持つ平和と献身の感情は素晴らしい。常套的な変調をせず、またひとつの音階に留まらない。しかし無限に続いている世界を、バッハは素晴らしく印象付けている。これはシェーンベルクが作曲した、といってもおかしくない。”

そして次のような彼の言葉によって締め括られていく。

“僕は人生を通じて、来世が存在するという強い感情を抱いてきた。魂が変化するのは僕らが無視できない現象で、この現象が発光する光に向かって僕らは存在を確立すべきなのだ。だから僕は「ここと今」の哲学者たちに嫌悪を覚える。反対にライ性の概念を何に基盤に築くべきかという客観的なイメージを僕は持っていない。僕らに不可避な死を受け入れさせ、僕らの心の支えとなる永遠の生という理論を持ち出したい欲望にそそのかされるのは確かだ。直感的に思うのは、来世の人世について確信を持つための努力をする必要なんて僕にはないということだ。無と忘却。これらは無限に真実に近いと僕の目には映る。”

なんと深遠なる思考か。

音楽とともに存在と夢幻(あるいは無限)を奏でるピアニストの稀に、深く吐息をついた。

出演
グレン・グールド(ピアノ)
ポール・シャーマン(指揮)CBC交響楽団
ラッセル・オバーリン(カウンターテノール)
サー・アーネスト・マクミラン(指揮)トロント交響楽団
ブリューノ・モンサンジョン、ジル・アパップ(ヴァイオリン)
ジャン=マルク・アパップ、マルク・コッペイ、ユーディ・メニューイン(ヴァイオリン)
■スタッフ
ブリューノ・モンサンジョン(監督、脚本)
ロリー・ブレムナー(ナレーター)
■製作
ARTE France, 2005年

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■Glenn Gould Hereafter FULL DOCUMENTARY →https://www.youtube.com/watch?v=sTjQG7xRrvM

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by k_hankichi | 2017-09-04 06:20 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)

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