バッハの音楽を研究してくれる人たちが沢山いて、ときどきにその方々が記した本を読み、そしてまた音楽に立ち返る楽しさを味わう。『バッハ探究』(樋口隆一、春秋社)はそういう本で、しみじみとこの作曲家の透徹に改めて感じ入った。
“これは何かというと、後の人が絶対音楽と呼ぶものです。つまりフーガは本来は声楽の様式、言葉から発した様式なのです。そういう伝統的なものをバッハは絶対化した。フーガという形式の抽象化を行ったのです。これが「平均律」であり「フーガの技法」であり、ひとつの抽象音楽です。この抽象的な音楽というのが、十八世紀まであり得なかった。モーツァルトの頃でもあり得なかったのです。(中略)つまり、言葉や思想といった内容なしに音の組合せだけでより高いものを何か暗示的に、抽象的に示す芸術がその頃育ちつつあったわけです。それが十九世紀の音楽のひとつのバックボーンとなります。”(「Ⅱ 歴史のなかのバッハ」より)
そうか、フーガは言葉なのだ。言葉なのだけれどもそれが変革して抽象的な音魂に化身したのだ。
バッハのマタイ受難曲が、それまでの様々な作曲家たちによるオラトリオやミサ曲、と比べて如何に独自なのかについても語っている。
“テレマンをはじめとする当時の同時代者の場合、どうしても表現が紋切型になるのに対して、バッハの場合はすべてがきわめて個性的です。バッハは受難の物語を客観的に叙述する立場を越えて、一人の人間としてユダの裏切りを憤り、ペテロとともに亡き、バラバと叫ぶ大衆の節操のなさに憤嘆します。いや、それだけでしょうか。バッハの場合、そこにもうひとつの視点が加わっているのです。銀貨三十枚で師のイエスを売ってしまうユダ、保身のためにイエスの弟子であることを三度も否定するペテロ、そして一度は歓呼してエルサレムに迎えながら、いとも簡単に立場を変え、イエスの死刑を要求する群衆も、他人ごとではなく、考えてみれば自分のなかにもそうした面があるのではないか。つまりそうしたあらゆる人間の弱さに対しても、はっきりと目を見据えている強さと愛情。そのような彼の人間臭さが、「マタイ受難曲」のあらゆる部分に熱い血を通わせているのだと思います。”’(「Ⅰ バッハ 生涯の軌跡」より)
ああ、バッハはやっぱり素晴らしい。