命日の翌日に読了。『小津安二郎の喜び』(前田英樹、講談社選書メチエ)。
“考え方は、ひとつしかあるまい。小津がどんなにアメリカ映画に敬服し、それを手本としたところで、彼の真の天分は、そういう手本とはおよそかけ離れた場所に、彼自身を引きずっていったのだある。それは、どんな場所か。人物による行動の「迫力」、というようなものとは初めから縁のない領域、個体同士の闘争や競合、対立や葛藤といったものからは絶え間なく分離して形成され続ける潜在的な〈永遠の現在〉という領域である。その領域は、私たちの生に対してはっきりと実在する。いや、真に実在するのは、まさしくその場所だと言っていい。”(第5章 なぜローポジションなのか)
作品を観て感じることが抽象的な表現ながら語られていて、なにかとても安堵した。
そしてやはり思った。
評論や解説をいかに読んで考えたところで、小津映画の中身や伝えたいことは分からないのだ、ということを。
とことん作品を観ること。観続けて僕はそのなかに浸り、その空間に沁み入ることしかないのだ。