双方を、官軍民すべてを、如何に異常にさせてしまうか
丸谷才一の『星のあひびき』(集英社文庫)を読んでいて、どうしても手に取りたくなったものがあった。『昭和史の大河を往く ~第七集・本土決戦幻想・オリムピック作戦編、第八集・同・コロネット作戦編~』(保阪正康、毎日新聞社)。
僕の父親は曾て海軍飛行予科習生で、もちろん自ら志願してそこに所属し訓練に明け暮れていた。もしあの戦争が長引けば、僕自身が生まれることもなかったし、もちろんここにこのような事柄を書いていることもない。
だから、あのころの人たちがどういうふうにあのように突き進んだのかは、すこしでも理解したかった。
日本が無条件降伏をしなければ、連合軍は、11月1日に九州に上陸し(オリムピック作戦)、そして1946年3月1日には関東に上陸して(コロネット作戦)、欧州戦線さながらの地上戦を繰り広げ、殺戮と破壊を総力を挙げて突き進んでいたという。その準備の周到さを知るだけでも戦慄するが、それを迎え撃とうとしていた軍部や大本営の異常さにも、震撼する。
コロネット作戦編には以下のように書かれている。
“こうしてアメリカのジャーナリストたちの残したルポを読んでいくと、本土決戦は軍事指導者たちが民間人を脅迫し、強制的に参加させようとした戦いだったことがわかり、玉音放送を聴くとあっさりと敗戦を受けいれていった経緯が浮かび上がる。ゲインもブラインズも日本国内を自由に歩き回って取材をつづけているが、日本人の開放的なところや、あの戦争下ではわれわれは少々異常だったとの言い訳に何度も接していたことがわかる。本土決戦はもともと行える状態でなかったといえるのだが、しかし、もし日本が降伏しなかったとするならば、その異常な心理状態のままで本土決戦がつづいたのだろうか。”
僕は、続いていたのだろうと思う。
と同時に、いまの世の中でも、こういった事柄は、どこの国でも相も変わらず起こり得るのだということに突き当たる。
これ以上先のこと、深いことを考えるのが、恐ろしくなった。