窪美澄さんの小説は、僕にとってはいつも、少しだけ得体の知れない部分があって、その本質は何なのかが掴めぬまま薄絹を隔てて読み進める、というような状態にあった。そしてまた、その中身が分からないだけに、そこには健全なる人を妬んだり、欺こうとする気持ちが隠されてはいまいか、と疑っていた。
『やめるときも、すこやかなるときも』(集英社)は、そんな気持ちを払拭させてくれるものだった。
東京に住む家具製作人の壱晴は、とあるきっかけから桜子という広告製作会社のOLと出会う。彼らは互いに惹きあうのだけれど、深い躊躇いが双方にある。年に一度、或る時期に壱晴は声が出なくなるが、その原因の事象が二人を近づけることを阻んでいる。
惹きあう力と斥力の拮抗は、どのようにして破られるのか。
それは大切な記憶を消し去るということではなく、共に寄り添って見つめ直していく、ということのなかにあった。
読みながら考えた。これは僕らの生活のなかでも、これに近いことが公私共々にある、ということを。ふたりの人、あるいは二つの集団が向き合っているときに、一歩踏み出して相容れる関係になれないとき、どのようにして互いに融和できるようになるかということを。
この作品で初めて、僕にとっての薄絹が音もなく消え去った。そしてその中にあったものに触れることができた。それは猥雑でも猜疑でもなく、とても繊細な、砂糖菓子よりも遥かに儚く壊れやすい、横に並んで寄り添って人を愛おしむという気持ちなのだ。