先週の今頃は、長崎の平和公園を訪れていた。平穏なる市民たちが住む穏やかな町であるにもかかわらず標的にされ、Ground Zeroとなったということに、ただただ黙することとなった。
そして遠藤周作の小説を読んで初めて、その浦上地区が、江戸時代にはキリシタンの村として弾圧され尽くした場所であることを恥ずかしながらようやっと知った。
表向きは信仰を隠しながら生きてきた人たちの村。長崎の町中の人々はおそらく感づいていただろう、そして疎んじられ続けただろう。明治時代になり、しばらくして初めて天主堂を建設し、堂々とお祈りを捧げることができるようになった。
そこを標的に選んだ国はキリスト教を深く信仰する人々の集まりだっただろうに、それでも敢えてその一帯を狙っていった。軍事施設だけでなく市街地も含んでいるにも関わらず。つかの間の安住の地が阿鼻叫喚の地に転じた。
施政者というものは、傲慢に無慈悲にどのような事をも実行してしまう、できてしまう。その結果に何が残されるのかということを、権力を持つ者は何重にも何重にも深く考察して、物事を運んで行かねばならない。
■被爆後の浦上天主堂(米軍記録映像) →
https://youtu.be/z8nrQkerc9w