話題の映画を観る前に、と何の気なしに読んだ。『沈黙』(遠藤周作、新潮文庫)。
読み終えて深い吐息をつき、これまでの浅い認識、すなわち“ネスカフェ・ゴールドブレンドの人”、或いは“ダバダ〜の狐狸庵先生”というものが、ガラガラと崩れ落ち、その代わりにイエス・キリストが静かな眼差しで立ち上がるのを見た。
いったい僕は遠藤周作の小説を学生時代どのように読んでいたのだろう。
解説を佐伯彰一が書いている。「アリストテレス流の悲劇の伝統的な定義が、そっくりそのまま当てはまりそうなほどに、ドラマチックな骨骼が、どの作品にも透けて見える。(中略)思いもうけぬ不意打ちは、まったく起らないというに近いのだから、ドラマとしては、わき道なしの直線的展開が一きわ目立つ。」
まさにそういう感銘だった。
昨年読んだ津島佑子の『ジャッカ・ドフニ』の幾つかのシーンが重なったりもした。そしてまた、『マタイ受難曲』の数々の場面が頭をよぎった。
映画を観る前にまだやることかあるのではないか。キリスト教のこと、隠れキリシタンのこと。宗教信仰のこと。しっかり学ばねば。