その表紙の絵※がおっかなくて、何回も手に取りながら買わすにやりすごしていた。しかし週末に書店に赴いたとき、1980年代前半の慌ただしく流れていた時代に何が起きていたのか、ということについてどうしても知りたいという欲望に駆られた。
『罪の声』(塩田武士、講談社)は、心臓の鼓動が聞こえてくるほど緊張を強いられるミステリーで、これが小説なのだと分かってはいても、どこかでこれが事実であるとすれば、大変なことだ、と半ば興奮状態になっている自分がいた。
“二両目にいたキツネ目の男は、先頭車両でバッグを抱えて座る捜査員を見続けていた。(中略)どう考えても犯人一味としか思えない男の行動に、現場の特殊班捜査員は二度、職務質問の許可を要請した。だが、焼き肉店での逮捕未遂劇以降警察庁が主導権を握り、「一網打尽」を唱える捜査本部はこれを却下。(中略)京都駅では突然逆行したり、振り返って周囲を見渡したりするなど尾行を警戒し、改札を出てから人ごみに紛れて消えた。”(「第三章」)
そんなことがあったのか・・・。
僕はあのころ、社会人駆け出しのころで、毎日の仕事に忙殺され、このようなことも含めて社会事情の何事についても記憶に残っていない。いったい自分はあのころ、何をしてきたのか。どのような毎日を送っていたのか。
小説はもちろん読み手のことは配慮しない。しかし、あの事件のみならずその前後の社会情勢、経済情勢や事件の数々が描かれていくことで、驚くべきことに読み手の(すなわち僕の)30年前以上前の私的な事柄の数々が、すこしづつ蘇り始めた。自分自身の身辺に起こっていたさまざまな喜怒哀楽の記憶までもが。そして思った。あの時代を経たからこそ、今の自分がいるのだ、ということを。
この作品は、あの時代に焦点を当て、過去から現在に至るまでの謎を辿り、事件を浮き上がらせていくことを通じて、自分自身がいま在るということの意味について振り返らせるものだった。
※表紙絵:中村 弥「幼い記憶」(2005年)