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by はんきち

『西方の音』(五味康祐)が目指すマタイ

駅の売店の週刊誌コーナーの中空にある文庫本棚(グルグルと回ってそれぞれの面に本が収まっているやつ[何という名称だろう?])に、あろうことかクラシック音楽の本があって、吃驚して思わず買い求めて読んだ。『西方の音』(五味康祐、中公文庫)。

いつものように、極めて鋭い、聴き込んできた人でなければ語れないクラシック音楽論が展開される。文体論も面白かった。
“音楽を文体にたとえれば、「ねばならぬ」がベートーヴェンで、「である」がバッハだと思った時期がある。ここに一つの物がある。一切の修辞を捨て、あると言い切るのがバッハで、あったのだったなぞいう下らん感情挿入で文体を流す手合いは論外として、あるとだけでは済ませぬ感情の盛り上がり、それを、あくまで「ある」でとどめるむずかしさは、文章を草してきて次第に私にも分かってきた。(中略)シューベルトは、多分「だった」の作曲家ではなかろうかと私は思う。”(「少年とモーツァルト」より)
バッハのマタイ受難曲についての記載では次のように冴える。
“バッハはペテロを「まるで上品な紳士のように歌わせた」とマザー(注:晃華学園校長マザー・メリ・ローラ)はわらう。本当のペテロは粗野で頑健な男だ。イエスに従い、イエスを否むこのころのペテロは漁師でなければならない。「バッハは間違った」と、だからマザーは言うのだが、ところがペンデレツキのペテロは、なんとも荒々しい声で登場する。これはもうリアリズムで片付く問題ではない。(中略)それでも、ヨッフム盤を一度でも聴いてしまえば現代感覚では、クレンペラー盤はもう過去形でしか語れない。まるまるレコード一枚分、クレンペラーの方がテンポがのろく、しかもバッハの神性の流露でヨッフム盤に劣る。マザーもこれに同意見である。ただ、前のペテロの登場に限っては、ヨッフム盤のペテロ(注:フランツ・クラスと思われる)はクレンペラーのそれ(注:ワルター・ベリー)よりさらに弱々しい。醇朴だが気の荒い漁師ではなく、まるでインテリの声だ。ことわるまでもないが、ナザレの大工の息子を支持したのはインテリではなかった。知識階級には、蔑みの眼で見られた人たちだった。いつの時代にも神の子はインテリに嘲られ、付和雷同する民衆には石をもて追われ、最底辺の極貧の人々にのみ慕われる。ペテロをインテリにしたのでは当時のイエス・キリストの悲劇は分からない。”(「ペンデレツキの『ルカ受難曲』」より)
あとがきで新保祐司さんが、別の本で五味さんが書いた次の言葉を引用している。
“「バッハの『マタイ受難曲』は、私のごとき人間には過ぎた曲である。でも私はひそかに自分は昭和のイエスではないかと思った時があった。嗤うのはたやすいだろうが、こうした実感なしでどんな受難曲の聴き方があろうか。自分がいちばん惨めなとき私は十字架にかけられたイエスを視てきた。エリ・エリ・ラマ・サバクタニ、そう叫ぶ神の子を。私は日本人で、カール・バルトの弁証法神学を一生懸命勉強したが、私という人間の体質はいささかも変わらなかったことを知っている。」”(『天の聲 -西方の音-』より)
どうも五味さんも、マタイ受難曲を一番愛したらしい。

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西方の音 - 音楽随想 (中公文庫)

五味 康祐 / 中央公論新社

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by k_hankichi | 2016-04-05 06:56 | | Trackback | Comments(3)
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Commented by Oyo- at 2016-04-05 07:26 x
思いがけないところに面白そうな本が^^ 探してみましょっ(^・^)
Commented by saheizi-inokori at 2016-04-05 10:04
一刀斎のオウデイオ遍歴は週刊新潮で読んだ記憶があります。
「西方の音」、これは違ったかな。
Commented by k_hankichi at 2016-04-06 07:42
おようさん、痛快な本です。
saheiziさん、一刀斎のオーディオのコラムは読んだことは無いのですが、同じようなトーンだと確信します。ズバッと袈裟懸け、という感じです。