「結論から先に言ってくれ」、を300年近く前からやっていた
そういえば確かにそうだよなあ、と深く頷きながら読み進めたのは、またしても『マタイ受難曲』。友人が名著でバイブルであると言っていた、磯山雅によるものである(東京書籍刊)。
“しかし<マタイ受難曲>において、バッハはさらに先をゆく。ここでは、十字架を背負ったイエスを先頭にしての、刑場ゴルゴダへの行進の情景があらわれる。われわれはそれによって、受難のクライマックスをなす、息詰まるような場面へと、いきなり投げ込まれてしまう。90小節という規模は<ヨハネ>のそれの153小節には及ばないが、イメージが具体的なだけに、その迫力はいちだんと優って感じられる。ほぼ同時期にハンブルクで書かれたテレマンの<マタイ受難曲>(1730年)が簡素なコラールで導入されることを考え合わせても、バッハの構想の大きさは、きわ立っている。行進の情景は、出来事を間近に見る、「シオンの娘」(第1グループ)と、その報告を受ける「信じる者たち」(第2グループ)との、緊迫した応答を通じて描き出されていく。そしてそれを、第3の演奏者たちによるコラールが、高く響きわたって意味づける。時間を超え、レベルを異にする多様な視点がこのように交錯し、一体となって機能する手法は、バロックの究極に位置するものであり、同時に20世紀をさえ先取りするものである。バッハの卓越した知性のみが、その音楽化に成功した。”(「第I章 花婿が、子羊のように -冒頭合唱曲の世界」から)
なるほど、これは「結論から先に言ってくれ」を、地で行っているのだなあ。そんな曲はそれまでなかったのだよなあ。
そのあとに世の中に出てきた幾多の作曲家たちのことを思い出してみても、やはり、そういう構成になっている曲は、あまり思い出せない。
ページを繰るたびに、含蓄のある解釈の数々が現れてきて、ここにもまた新たなる「マタイ受難曲」の世界が文字によって繰り広げられていく。
いつまでも飽くことのないこの音楽。完全に自分の世界として把握しつくすまでには、まだ相当の長い時間がかかりそうだけれど、ずっとずっと離れずに沿っていきたいと思う。