『べつの言葉で』・・・ジュンパ・ラヒリから沁み出てくる不安と真実
ジュンパ・ラヒリがエッセイを出していて、それを楽しんだとともに、何故彼女の小説に牽かれるのかその理由が分かった気がした。『べつの言葉で』(新潮クレストブックス)。
“アイデンティティーが二つに分かれているせいで、またたぶん気質のせいで、わたしは自分が未完成で、何か欠陥のある人間だと考えている。それは自分と一体化できる言語を欠いているという言語的な理由によるのかもしれない。(中略)根づいているのではなく、宙ぶらりんだった。わたしにはあいまいな二つの面があった。わたしが感じていた、そしていまもときどき感じる不安は、役にたたないという感覚、期待はずれな存在だという感覚に由来する。(中略)小さいころからわたしは、自分の不完全さを忘れるため、人生の背景に身を隠すために書いている。ある意味では、書くことは不完全さへの長期にわたるオマージュなのだ。一冊の本は一人の人間と同様、そうの創造中はずっと不完全で未完成なものだ。”(「半過去または不完全」より)
著者が書いたエッセイは、著者が慕い焦がれ憧れていたイタリア語によるもので、母語ではない言語から紡ぎだそうとするその喘ぎのなかに、彼女自身の生い立ちの苦しみが重ねられていた。
自分がそこに居るのに、所属していないような疎外感。そのことを、初めて明確に、それも自分の母語ではないことばによって、ようやっと語ろうとし始めたのが、このエッセイだったのだ。
まるで須賀敦子が書いているかのような幻覚に捉われた。