戦争中の杉並の映画を見終えたところで、そのころの東京・日本橋区米沢町(現在の中央区東日本橋)のことがでている随筆を読んだ。『和菓子屋の息子 ある自伝的試み』(小林信彦、新潮社)。
そのたりが本来、両国と言われたところだということだということも、ようやっと知った。唐辛子などで有名な薬研堀がここにあり、そこと隅田川、そして後の靖国通りを囲む地帯だ。東京の生粋の「下町」の一角であって、その暮らしの日々が描かれている。
それにしても、つぎのような事柄には驚いた。
“下町=<人情共同体>というのは、戦後のマスメディアによって作られたイメージである。その証拠に、古典落語に出てくる長屋の人物はそれぞれに仲が悪い。彼らがまとまるのは、因業な大家に対抗する時だけといってもよいだろう。そこにはある種のリアリティがあったわけです。<人情共同体>というカンチガイが発生した元は、1930、40年代の<大船庶民映画>にあったのではないか、とぼくは推測している。”(「下町には<通俗的な人情>はない」より)
いやはや、下町=人情とは、そういう虚構の夢の話だったのか。
もうすこし小林ワールドを掘り下げてみたくなった。
Google Map 両国薬研堀界隈→
https://www.google.co.jp/maps/@35.6933643,139.786707,454m/data=!3m1!1e3Goo古地図 ここから昭和38年の航空写真に移ることができる。 →
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E139.47.24.436N35.41.23.848&ZM=11