ピース・又吉直樹の小説が売れているという。書店の店頭で少し繰って見ただけだと、良くわからなかった。買って読む勇気はなかった。そんななか、『東京百景』(ヨシモトブックス/ワニブックス刊)というエッセイ集が出ていることを知った。ああこれは『富嶽百景』のモジリだなと思った。
太宰が好きだという人には近寄らないほうが良い、と太宰好きの自分には分かっていて、だから避けた。
そういう心の隙に付け込んだのか、知らないうちにそれを買い求めていた。表裏のカバーが昭和初期の本の装丁に似せたものになっている。手に取って見ると、なにか懐かしさが込み上げる。
次のような一節にも、心がカタッと鳴った。震えそうになった。
“どぶの底を這うような日々を送っていた。当たり前だが金が無いと飯が食えなくて腹が減る。働けば良いのだけれど仕事がない。バイトの面接には受からない。雇ってもらえても力仕事だと長続きしない。”(「池尻大橋の小さな部屋」より)
なんだ、これは太宰の『晩年』のなかの一篇、『葉』ではないのか。
“撰えらばれてあることの
恍惚こうこつと不安と
二つわれにあり
ヴェルレエヌ
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。”
止めておけばよかった。誘惑があるだろう今後も、この魔の手に乗ってはならない。こちらまで、語り口が似てきてしまう。あぶないあぶない。そう頭の中に念じた。
太宰が好きだという人は近寄らないほうが良い。念じておいても、心が自然にそれを許してしまい、こじ開けられてしまう。そうして、いつかまたこの著者の本を買い求めてしまっている。そういうものなのかもしれない。パンドラの匣だ。