2月最後の衝撃・・・『西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け』(森本恭正)
この著者のことを知らずに、これまで西洋音楽を聴き続けてきた自分を非常に恥じた。と同時に、目からうろこが落ち、鮮烈な火花が散るなかに身を晒しているような気持ちになった。『西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け』(森本恭正、光文社新書)。
バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第三番BWV1006」の冒頭を例にとり、西洋音楽はバッハの時代から「後拍(裏拍)」であったと看破する。四分の三拍子の冒頭は休符で始まり、全32楽節中、16楽節で後拍から音楽が始まるという。それに対して、われわれ日本人は、後拍で音楽を聴く感覚がないとする。二の句が継げない。
そしてロマン派音楽について。
「ロマン派の音楽とは何だと思う?一口で言うと」
「私に言わせれば、それは一種の狂気だ。今までの規範、世間の常識では計り知れないもの、人智の遠く及ばないもの、想像を超える程の狂気、そういった事への慄きを表出したものがロマン派の本質だ」
著者はそう自問自答する。僕はと言えば、もはやすべての自分の認識が打ち崩されるかのような衝撃を受ける。
さらに続く。ブラームスのヴァイオリンソナタ第一番ト長調の第一楽章冒頭について。
「これが、Vivace(早く生き生きと)に聴こえましたか?」
Vivace ma no troppo・・・早く生き生きと、しかし甚だしくなく
そのように作曲家は指定しているという。しかし現代の演奏家でそのように弾いている人は皆無に近いそうだ。だれも作曲家の趣旨を理解せずに、たんに曲想を自分の想像するままに歪曲解釈している現実があるという。
“「胸がどきどきして、息苦しく、思わず大きく深呼吸したくなる様な、あの震えるような興奮を、私たちはブラームスの音楽に忘れてきてしまったのではないでしょうか。否、ブラームスだけではありません。現代まで生き残ったクラシックの作品には、恐らく、全てあるのです。信じがたいようなあの興奮が。それらがすっかり忘れられて、クラシックといえば、敬老会の為の音楽のようになってしまった。それは、100%私たち演奏家の責任です。 (中略) 現代の演奏家を見てみたまえ。こうした狂気を見据えて作品に取り組む者が、一体どれだけいるか、心を掻き毟られ、手を震わせながらシューベルトの楽譜を読み、ベートーヴェンのリズムに陶酔し、チャイコフスキーの切実さに体を重ねあうようにして、弾いているものが一体どれだけいるのだ。」”(「第二章 革命と音楽」より)
これまで、西洋音楽を分かった気になって、聴いてきた自分のことが、やっぱり極東の「表泊リズム」でかつ指揮者が居なくとも全体感で動いてしまう民族の一派なのだと痛感した。