生きているしるしが「会わない」ことにある、ということ
堀江敏幸の『象が踏んでも 回送電車Ⅳ』(中公文庫)を読了。そこかしこに、しみじみとした記載ある。
次の言葉には、心を打たれた。
「しかしラヒリにもないのは、会おうと思えば会えるような近しい人とあえて会わないでいる、という距離の取り方だ。この微妙な距離の姿に注意を促しているのが、『文学が好き』(旬報社)の荒川洋治である。世界的な雪の研究者、中谷宇吉郎の、若い日の文章を引きながら氏は言う。会っていなければ、相手は「死んでいる」ようなものだが、死んだ人には会うことはできない。
“だとすると、「会わない」状態のなかで、耐えていることは、相手もこちらもが、いのちをもつ、つまり生きていることのしるしなのだ。生きているしるしが、「会う」ことよりも、「会わない」ことのほうにあるのだ。それは大きな世界だ。”
大切なのは、「会わない」ことの濃度である。いかにあたたかく、またいかに淡々と「会わない」時間を受け入れるか。生を意味づけるこの豊穣な否定の世界に、私はいま思いを凝らす。」
豊穣な否定の世界、ということの意味は重い。しかし会いたい場合もあるよな、と複雑な気持ちにもなった。人は自己のなかに世界をもっているけれど、それだけではなくて外との触れ合いを通じて、啓発や気づきがたくさんある。