自由なの言われて二の句継がないそれでよい・・・『カキフライが無いなら来なかった』
自由律俳句というのを、初めて読んだ。『カキフライが無いなら来なかった』(せきしろ、又吉直樹、幻冬舎文庫)。
俳句とは、五七五であって、字余りもそこに新たな感覚が生まれるときぐらいには許される、としか思っていなかったから、これだけ自由だと、なんだかもう呆気にとられる。本の表題は又吉の句である。
二人の次のような句のかずかず。なんだか肩肘張ることの意味の無さが分かってくる。
■せきしろ
チリ産鮭切り身圧倒的な色
電器店のビデオカメラに映る思った以上に老けている
後半のバラードはスキップした
温室の匂いがいつかの記憶にかるく触れる
キャベツお代わりのベストタイミングは今
二十年ぶりくらいに石を投げる
客のいない理容店店主がこっちを見ている
文房具売り場で試し書きされた蛍光のバカ
湯飲み茶碗が熱いが手を離すわけにはいかない
■又吉直樹
山では素直に挨拶出来る
「草分け的存在」もっと良い表現は無かったのか
このカルビは少し僕よりにある
居酒屋のトイレで一旦酔っていないふりをする
側転をしてはこちらを見てくる少女
耳鼻咽喉の看板が阿鼻叫喚に見えた夜
縄跳びが耳にあたったことを隠した
二学期から人気が出るタイプ
ぐらつく歯を避けて鯖の味噌煮を噛む
枠を考えない。超える。どの句も、俳句だから何の説明もない。でも数回読んでいるとなんだか分かってくる。読み手は流れに任せているのではない、噛みしめているのだ、ということが、すこしわかりかけてくる。
ここで僕も一句。
自由なの言われて二の句継がないそれでよい