透徹さと余韻のあるみちしるべ・・・『ひとり暮らし』(谷川俊太郎)
社会人に入りたてのころ、谷川俊太郎の詩やソネットが大好きで、そういう話を周囲の人にすると、それはエンジニアばかりだから、怪訝な顔で押し黙られるのが常だった。そういうことや、もろもろの違和感があって、そのころは酒で気持ちを紛らわそうと自棄になったりしていた。
すこしさみしく、しかしまっすぐな眼差しで、二十億光年のかなたに向かう谷川さんは、僕にとっては唯一の支えだった。
そんな谷川さんは、ある年頃から、ひとり暮らしをしているらしく、それは今の僕の状態とは全くちがうが、しかし彼のこのエッセイは、僕の壮年から老年を見つめての、一つのみたしるべになるような気がした。『ひとり暮らし』(新潮文庫)。
“ゆとりとはまず何よりも空間のことである。ラッシュアワーの満員電車のように、心がぎゅうづめになっていてはゆとりはもてないだろう。心にぎゅうづめになっているものが何であるかは関係ない。それが欲であろうと、感情であろうと、思考であろうと、信仰であろうと、動かすことのできる空間が残っていなければ、息がつまる。そして動かずにこり固まってしまうと心はいきいきしない、他の心と交流できない。”(「私」)
“自分のこころだから分からないはずはないと思うのは誤りだ。自分のこころはもしかすると他人のこころよりも分かりにくい。ましてこころの奥にあるというたましいなんてものは、もっと分かりにくい。分からないまま日々私は生きている。我ながら大胆だ。”(「自分と出会う」)