憲法記念日は、練馬区美術館に出かけて『牧野邦夫 ‐写実の精髄‐ 展』を観た。先週末のテレビ東京『美の巨人たち』の放映(ココ→
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/130427/index.html)を何の気なしに眺めていて大きな衝撃を受けたからだ。※牧野は1925年に東京・幡ヶ谷に生まれ、1986年に病のためこの世を去っている。
『未完成の塔』と題する未完成の絵。それは、ブリューゲルの『バベルの塔』的な、壮絶なる絵巻物のようだ。50歳になった1975年から描き始めて、90歳になるまで描き続けるとしたその絵は、彼が61歳で亡くなったために、未完成である。しかし、この絵は、未完成だからこそ、そこにある空白は主を失った空間として僕らに何物かを問いかけてくる。生きる意味とは何か、完成させるということは何なのか、ということを。
彼は、若いころからレンブラントに傾倒し、彼のような洞察力、現実とその裏にあるものを見据える力をもって、絵を描きたいとした。そして幾多の自画像を描き続ける。その凛と凝視した眼差しには、僕らは正視しつづけることが息苦しくなる。
若かったころの自画像、特に1960年代のそれは気高さと美しさに溢れる。これが、時がたつにつれ、1972年ごろは厭世的に、翌年は物憂げになり、1974年は険しさが入り込んでくる。
1975年になると、けだるさや疲れの表情、そして、翌年は、焦燥にとりつかれたようになり、1977~1978年のそれは険しさがにじみ出てくる。
1981年になるといまにも崩れ落ちそうな危うさが訪れ、1986年に至っては、やつれた姿になり代わり、同年に世を去る予兆を自ら示している。こんなにも沢山の自画像を、どうして描き続けざるを得なかったのか・・・・。
そして更にすさまじいのは、戦いの絵や、地獄絵だ。平家物語を描写した『海と戦さ』は、ボッティチェルリのビーナスのような姿の女性が中央上の船上に立ちながら、その周囲は死闘を繰り広げる男たちがいて、海の中には、その女が沈んでいく。
芥川龍之介の小説の題材を描いた『ジュリアーノ吉助の話』、『地獄変』の壮絶さよ。そして髙木俊明に触発された『インパール』という太平洋戦争の戦場を描いた作品は、レオナール・フジタの『アッツ島玉砕』の遥か上をゆく悲惨さで、屍の肉を食う兵士や、蠅がたかり蛆に沸く死屍累々など、目を覆いたくなるほどの阿鼻叫喚だ。
沢山の人々を描いたこのほかの絵でも、そのなかに快楽と惨たらしさが同居するさまを、これでもかというほど描いてゆく。ブリューゲルやヘロニアス・ボッシュの絵のような感覚に捉われるが、これは現代の絵なのだ。
亡くなる年に描いた『雑草と小鳥』は、はちきれんばかりに溌剌とした大きな千穂像の下の地面に、雑草が生えていて、その花や実になるところに人の顔がある。このあいだ観たオディロン・ルドンの『ゴヤ讃』の『沼の花、悲しげな人間の顔』のような態様だ。閉じこもった自分、その小ささを描こうとしたのか。
自己を見つめる反面、実に快活な絵もいくつか描いている。それは、晩年の伴侶ともなった千穂の裸体で、その美しさは、はちきれんばかりの清らかさと優しさに包まれている。牧野は、自己や芸術を見つめる鋭い眼差しにたいして、千穂やあるいはその他のモデルを描くことで、なんとかその均衡を保っていたのではないだろうか。
展覧会の公式図録画集のなかで、学芸員の野地耕一郎がこう書いている。
「・・・誰のものでもなく、どこまでも自身のものでしかあり得ないその精神と魂をあらゆる隷従から解き放ち、拭いきれない不安感と疎外感からも救済してくれるものとして、絵画は存在した。だから、自己のなかに渦巻く孤独や愛欲や死にまつわる内なる葛藤を極限まで追い詰めざるを得なかった。・・(中略)・・闘う相手は牧野自身の中にしか無かったのである。」
■以下、YoutubeにアップされたInternetMuseumの映像。