俳句の極みに、東西文化の違いを感じる・・・『引き算の美学』(黛まどか)
この出張中、読み進めていた本を読了。『引き算の美学』(黛まどか、毎日新聞社)。
欧米の人たちは、いろいろなことに「理由」を求める。「背景説明」を求める。もちろん、われわれも仕事の上では「理由」や「説明」を求めがちであり、それが整っていないと「あいつの言うことは、わっけわからん」、「ぜんぜん説明になってないな~」と突き放すことも多い。
しかし、日常生活、私生活のなかでは、僕らは彼らに比べれば、遥かに「思いはかる」ことによる呼吸や把握、そして暗黙の同意が多いだろう。
著者は俳句について、次のように記している。
“俳句は「沈黙の文学」と言われるが、それは単に短いから言えないということではなく、直接的には説明せず、物に思いを託して語らせるということだ。だから俳句では、時系列の事柄は現さない。瞬間を切り取り、その切り口から物語がにじみ出るのである。いかに黙るか、それが俳句の神髄だ。沈黙はただの沈黙ではなく、作者の思想や世界観を深くに抱えていなければならない。先に挙げた芭蕉の荒海の句も言葉の上では、作者の想いは一切述べられていない。ただ、荒海・佐渡・天の河といった「景」を提示しているだけだ。しかしそれらが余白に、作者の対象への思いを静かに語りだし、余情が生まれるのである。”
そして、今の我々は本来の日本の姿と異なるのではないかと違和感を呈し、向かうべき方角を次のように示している。
“より便利に、より速く、より豊かにと利便性や快適さを追求し続けた結果、世の中には物が溢れている。過剰なサービスや包装、アナウンスなどに私たちは慣れ、その欲求は止まるところを知らない。気がついたら日本は世界一快適で過保護な国になっていた。あらゆるものが饒舌なのだ。つまり足し算に邁進してきたのが現代社会だ。一方で俳句を含め、日本の伝統文化の多くは引き算の美学の上に成立する。言わないこと、省略することによって育まれる余白の豊穣を、私たちは忘れてはいないか。物欲は次の物欲を生むだけで、決して充足感を与えてくれない。…(中略)…日本文化の真髄である引き算、省略、その果てに生まれる余白の力を見直す時が来ていると私は思う。”
ということで僕も一句。
「春の宵 藍空濡らせ 石畳」
(はんきち、ベルギーにて)
[意味:半ば暮れようとする春の宵、私は石畳に佇み空を見上げる。その藍色は私の気持ちで濡らしてしまいそうに美しい。]