『忘れられる過去』(荒川洋治)…思い出のたいせつな意味
荒川洋治さんの詩を読んだ記憶はあるけれども、そしてそれが透明なうつくしさとともにあることは憶えているのだけれども、それがどんなものだったかはおぼろげである。でも、このひとの名前を見るたびに、あの美しい透徹さのひとだ、と思う。
詩集を読みとおさないうちに良いだろうか、と思いながらこのエッセイ集『忘れられる過去』(朝日文庫)を買い求めてページを繰り始めた。エッセイの一篇一篇は短いが、とても心に沁みる。どうしてこんなに心地よいのだろう。ひとつひとつに味わいがある。ときどき思い出したように読まないといけないなあ、と思うものがいくつもあった。
たとえば次のような小篇。せかせかと肩肘張って生きているいまのぼくから、力がふっと抜けて、しかしそれに代わって、誠実に生きなきゃ、という気持ちが湧いてくる。
“(中略)東京のなかとはいえ、離れた町へ行くことも多い。不在の可能性もあるのに、出かけるのだ。だから会ったときにする話には、それなりに重みがあったはずだ。
現代の日本は国民誰もが(?)携帯電話をもっているから、こんなことにはならない。でもいま携帯電話で僕らが話していることは、どうってことないものだったりする。「会える」ことが確実であることと、「会えないかもしれない」ではずいぶんちがうものになる。
また当時は予告もなく会いに行くから、そこに世代のちがう人や、新しい友人がいたりして世界が開ける。また「不在」でも、今日は会えなくてよかったかもしれない、今度来るときにはちがう話をしようなどと思う。志向が深まるのである。会えても、ものを考える。会えなくても考える。それが当時の人たちの「一日」だった。”
(『芥川龍之介の外出』より)