昨日、あることを追想する機会があった。「機会」と表現するのは意図して昔の出来事に触れようとしないかぎり、あるいは何かに押されて音信しない限り、動かない場合があるからである。
どこからともなく記憶が蘇ってくる。そして気付く。記憶というのは思い出すたびにだんだんと浄化されていくことを。余計な雑念やわだかまりが消え去っていることを。
あまりに美しい記憶だから、そのすべての一連がすべらかな何の迷いのない思考と判断の連続であったかのように思う。
しかし戒めなければならない。追憶とは思考の反芻による美化が存在することを。浄化により自分の存在があたかもイノセントであるかのように勘違いしてしまうことを。
その記憶を手繰り反芻するたびに、素晴らしい映画を観たかのように思っておこう。現実はもっと難しく、壮絶であったこともきちんと気付きつづけないといけない。追想は甘美なまでにきれいで、惑うほどであるから、ふらふらとしがちだけれども。