『「おじさん」的思考』を読みながら、昔の夏を思い出す
蒸し暑い。家でクーラーはつけまいと決めた今年の夏は、たくさんの蝉の鳴き声が網戸を潜って耳に響き、そのわんわんする音にさらに暑さが倍加する。昔はこんな感じだった。大人になるまで部屋にクーラーがある家で生活したことはなく、だから夏場はいつも外からの風だけを頼りに暑さをしのいでいた。汗が額に滲むほどになってきたら、やかんで沸かした麦茶をガラス瓶に入れて水道水で冷やし、冷蔵庫に入れる間も惜しく喉に通した。涼をとるのは汗をかきつつ必死で作るかき氷や冷やした西瓜ぐらいしかなく、アイスクリームなどは却って喉が渇くから食べるなと親に言われてそのとおりだと信じていた。
そんな暑い中に寝転びながら読む本は、内田樹さんの『「おじさん」的思考』(角川文庫)であり、読み進めるほどにああそうだよなそうだよな、と嬉しがる。
“「適度に酒を呑み」「適度な運動をし」「腹八分目に食べて」というようなことを気楽に言ってくれる人がいるが、これは実に困難な要請であると言わねばならない。それは「適度」ということが人間の本性にそもそも反しているからである。経験から言えることは、「気持ちが悪くなるまで呑む」方が「控え目に呑む」より容易である。「腹十二分目に食べること」の方が、「腹八分目に食べる」より容易である。小田嶋隆はかつて「酒とは、呑んでいるときは『呑み足りず』、呑み終えたときは必ず『呑みすぎている』飲料である」と書いたことがある。酒について、これほど適切な定義を私は他に知らない。このような人間のあり方を私は「身体に悪いことをする方が、身体によいことをするよりも人間の本性にかなっている」というふうにまとめたいと思う。”(「「人類の滅亡」という悪夢の効用」より)
そして本当はこんなことよりも、次のようなフレーズに僕はずっと感銘を受けている。
“人間の欲望が照準するのは、モノやヒトではなく、「他者の欲望」である。私たち人間は「他者そのもの」を占有したり、「他者と一体化」することを望んでいるわけではない。そうではなく、「他者の欲望の対象となること」、「他者に欲され、愛され、承認されること」を望んでいる。この「他者の欲望を欲望する」構造がもっともあらわになるのはコジューヴの引いているように性愛の場である。エマニュエル・レヴィナスによれば、官能において私たちが照準しているのは他者の肉体ではなく、他者の官能である。一方他者が照準しているのは私の肉体ではなく、私の官能である。私は他者の官能を賦活し、他者の官能は私の官能を賦活する。”(「教育とエロス」より)
蒸し暑い昼に本を読みながら眠り、眠りながら汗をかき、おきあがったら麦茶を飲み、また寝そべって本を読む。僕の思考は暑さの中に混沌とするものの、たぎる血流は書物によって少しずつ冷まされていく。朝の時間に設定した目ざまし時計がいきなり鳴り出し、窓越しに空を見上げてみると、そこにはすでに夜の気配が近づいていることに気づく。むかし過ごした夏は確かにこんなだった。そういうこともしみじみと思い出した。