月刊『新潮』9月号に掲載された『きことわ』。
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/tachiyomi/20100807_2.html
その小説を知ったのは、『流跡』を読んでからあとであって、『流跡』が、なにか畏敬の感が沸くほどの様相をしているものであったから、なおさら、その小説を読みたくなっていた。
今回、下馬評どおり芥川賞を受賞されたということで、(事前に読んでいなくて)しまった、という気持ちと、ああやはりそうなったか、という気持ちが交錯している。鋭く洞察された企てと、自然なる感性の融合が『流跡』であったのだが、では、『きことわ』はどんなのだろう。
出版社のWebから斜め伺うと、“永遠子は、夏になると、住んでいた逗子の家からバスで二十分ほどかけて、葉山町の坂の上にある一軒家をたずねた。”とある。そのあたりは、僕の記憶によれば、有名な文学者がたくさん住んでいたところであり、だからこそ、そこから漂い流れくるものには、“もののあはれ”のようなものが沢山沁み込んでいるような気がする。
石原慎太郎、裕次郎の世代から二世代隔たった僕らからすれば、その地区は、青春の美のような眩しさがあるわけではない。でも、だからといって放置できるようなものでもなく、逆に、バイアスがかからない状態で、小津安二郎の北鎌倉の延長線上にとらえている場所だったと思う。友人も住んでいた。だからこそ、なにやら、胸の底が疼くような、美しい陰影とともにあるものだと、想像してやまないのだ。