とうとう、その絵を見ることができた。昨日の会議の昼食時間帯、そそくさと会場を後にし、眼と鼻の先にあるノートルダム大聖堂に向かった。
その中に、その絵は、静かに、でも、熱いなにものかを保ったまま、僕を見下ろしていた。「キリスト降架」。磔から降ろされるイエスは、がっくりと首を傾けている。だれに対してでもなく、ただただ、自分の信じることを、無言のうちに、示しているのだ。
磔に処されたキリスト。罪を背負わされ、それを一手に引き受けた。「悪者」と烙印を押され、侮蔑の言葉を浴びせられた。いったいそれから、どれだけの年月が経たのだろう。いまのこの世の中は、そのときと、実は、何の変わり映えもしていないのではないのか。悪もの探し、批判と嘲笑、いとも簡単なる裁き。
僕の靴音は、大伽藍のなかにこだまし、その響きが残った。僕の心もそこに残った。僕は、その心をそこに置いたまま、教会を後にした。
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