小林秀雄さんと数学者の岡潔さんの対談、「人間の建設」を読んだ。よいことがたくさん書いてあるので、ちょっと困った。そして、焦った。自分の人間観・世界観がまったくもって足りていないことと、それから、話されていることのうち、自分ではきちんと理解できないことが往々にあるので。
でも、思った。これは、この先も、ときどき、読み返せばよいのだ。そうすれば、すこしづつ、頭から、心に、心から魂に入ってくるだろう、と。
お二人は、「無明(むみょう)ということ」について、対話されている。岡さんいわく、人は自己中心的に知情意し、感覚し、行為する。そういう行為をしようとする本能を無明という。芸術では、個性をやかましくいうが、それが自己中心的に考えられたものだと思われている。自我(西洋でいう)、小我(仏教でいう)が、それだが、でも、それは本当の個性ではなく、もっともっと深いところから来るものだというのだ。まだまだ真理に暗く、そこに到達できていない、迷いの状態。
無明からくるものは、醜悪である、ともしている。そして、無明を抑えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができる、というのだ。
一方で、「無明の達人」についても、語り合っている。小林さんは、ピカソやドストエフスキーについて、無明の達人という。無明に迷わされないと、あれだけ無明を書けない、無明の中に入らないと、あれだけ知ることはできない。
さらに言う。ドストエフスキーの苦痛は、深い無明に根差していて、彼の苦痛は、とても後悔なんかで片付く簡単な代物ではない、と。懺悔録などというものを書くトルストイのような男は、ついにがたっとくるのだ、と。
自分のことを言われているような気がした。
音楽家の場合について、考えてみた。この曲を弾きこなしてやろう、あっというような感激を与えてやろう、観客をハッと言わせよう、という状態は、まだ、無明なのだろうし、でも、作曲家の無明のレベル、そして、人間の無明のレベルまで落ちていないと、その無明を表すことはできない。
とすれば、そこまで達していて、演奏の中で、自分の無明を消し去ることができる人が、素晴らしい演奏家なのだろうかな。
最近、無明に居る人と無明を消し去ることができた人の、対極を見た(聴いた)ことを思い出した。
小林愛美さんと、アリス=サラ(紗良)・オットさん。対極にある。
いまのアンネ・ゾフィー・ムターさんは、もちろん、無明を消し去ることができているひとだ。
僕のほうの無明はつづく。