たそがれ時が好きだ。「黄昏」。なんとどきどきする言葉なのだろう。そしてなんてかっこ良い字面なのだろう。
ちょうど昨日も、たそがれ時に市ヶ谷の靖国通りを歩いていた。跳ねるように足早に歩いてくる女学生、コートを膨らませながら歩く年配の会社員、弓なりに男に寄り添って足がもつれ気味になりながら歩く女、それを見下ろす「KOBAN」の灯火、呼び込みの頃合いを見計らっている飲み屋の若い男、人々の姿はどれもがシルエットだ。わさわさとした人々の足音、歩道の片隅にある昼の温もりの名残り、タクシーやトラックが急いで走りゆく動脈線のような力。
遠くに視線を向けると、外堀の水面に、点灯し始めたネオンや看板の明かりがゆらゆらとしている。向こう岸は黒く盛り上がっているモンマルトルの丘だ。
これから夜になるわけなのに、夜になって小さく冷たくなっていくはずなのに、なぜか、街は生き生きとしている。無言の夜になる前の、生命の息吹。悲しみを秘めた生きる力。ブラームスの交響曲第3番第3楽章。
黄昏に込められた、過去の貴く、はかない記憶。