2017年 01月 17日

権利と義務

仕事のなかで最近「権利の主張」と「義務の遂行」の相克にたびたび遭遇する。

その二つが競合して、それぞれにしっかりと出来ているなら、自分も相手もハッピーだ。しかし現実は違う。

その狭間に立っていると、一方が拡大解釈され、そればかりかどんどんと自己増殖までしているときがあり、あまりの無法図さに、「なに考えてるんだ、君は」「それが社会人の言うことか」と喉元から言葉が零れ落ちそうになる。

怒りを鎮めるマネジメントは、言葉に出す前に6秒待つことだ、と聞いたことを思いだし、そのようして、すこし冷静になってみる。

さすれば次第に分かってくる。

人間というものが、如何に自己中心的なる存在であるかを。

哀しい哉、人生は。

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From https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Project_Human_Rights_Logo_EN.svg



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# by k_hankichi | 2017-01-17 20:27 | 社会 | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 16日

爬虫類時代の記憶

寒さが身に沁みる。
氷も凍る。
知らず知らずに蒲団を深く被ったままになる。
眠りは続く。
脳の奥底にある記憶が疼く。

「眠れ、眠れ、暖かさを感じられるときまで眠れ、そうしないとお前の命は永らえない」

爬虫類だった頃の記憶が、「るるる」と音を立てる。

日本海側は大雪の朝。

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From: https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Extant_reptilia.jpg



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# by k_hankichi | 2017-01-16 07:28 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)
2017年 01月 15日

どこへも導かないマズルカ

件のポーランドの小説を読みながら、ショパンのマズルカ集を聴いていた。何度も何度も聴かざるを得ない。

ピアニストが次のように語っている。

“時々、私はショパンのマズルカは四次元的な文学作品よりももっとその目的に適しているという気がするのである。我々の思考は、気分や懸念、希望などによって着色され、毒されているため、それ自体では存在しない。ショパンのマズルカは、「着色された思考」である。それは困難な諸問題に近接しつつも、「無意識」の最奥の秘密を探りながら踊るのだ。”(CDのライナ―ノーツから)

そしてそれは、ピアニスト自作の次のような詩でもって締めくくられる。

ショパンのマズルカは
死へ導くことはない。
たとえ
哀しく、狂おしく、
死のごとく、
甘く、
得体が知れなくとも。
生へと
導くこともない。
愛へも。

どこへも導かない―――
そこがマズルカの
凄いところだ。

小説よりもリアルでそして、おぞましいほどに切実で、天国と地獄を繋いでいくという、その演奏を聴いているだけで、自分が平原がどこまでも続くその北の大地を、延々と彷徨い歩いているような気持ちになってきた。

■曲目
ショパン:マズルカ集
■演奏
ヴァレリー・アファナシエフ
■録音
2001.4.23-24、笠懸野文化ホール
■音盤
コロムビアミュージックエンターテインメント COCO73046

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ショパン:マズルカ集

アファナシエフ(ヴァレリー)/コロムビアミュージックエンタテインメント

★★★★★


 
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# by k_hankichi | 2017-01-15 06:28 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)
2017年 01月 14日

第二の杉原千畝物語・・・『また、桜の国で』

人が読んでいるとどうしても気になって買い求め、出張の途中で読了。『また、桜の国で』(須賀しのぶ、祥伝社)。このあいだ読んだ『革命前夜』と比肩すると少し普通の作品。

第二次世界大戦直前から戦中のポーランドに生きる人びとが、侵略者たちに如何に立ち向かっていったのかというドキュメンタリータッチのものだ。そこで活躍する男は、東欧系の日本人の慎と、その地に心の底で繋がっている男と女たち。

不思議なのは銃声や爆音が無いときにも、その空気のかには花があるということ。そしてそのバックグラウンドにはショパンの名曲の数々が流れている。

“たとえ瓦礫になっても、きっといつか、この街はよみがえるのだろう。ポーランドという国が、常にそうであったように。人々が、決して諦めなかったように。仮司令部に使っている建物に戻り、出発の準備をしていると、ラジオから聞き覚えのある旋律が流れ始めた。準備の手を止め、慎はピアノの音に聞き入る。
「革命のエチュード」
日本語でつぶやいた途端、胸が締めつけられ、痛みをこらえるように目を閉じた。慌ただしい空気の中を、情熱的な旋律はその存在感を失うことなく駆け巡る。周囲の兵士たちもしばし動きを止め、聞き入っていた。”「第七章 革命のエチュード」より)

何度も何度も国を分割されたり征服されたりしながら、この国が如何にそのアイデンティティを保ちそして再建していったのかが分かった。
ショパンの音楽は、単なる愛玩的なものではなく、この国の人たちの血潮と汗の象徴なのだった。


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また、桜の国で

須賀 しのぶ/祥伝社

★★

   


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# by k_hankichi | 2017-01-14 00:56 | | Trackback | Comments(2)
2017年 01月 13日

「半吉」があるということを初めて知った

神社や寺に詣でればかならず求めるのがおみくじだ。

しかし毎回、大吉、吉、中吉、小吉のいずれかしか得られずに、僕はいつも「あー、はんきち、出たらいいのになあ」と呟いていた。そして、

「ないない! はんきち」

と、家人から小津映画的な反応が返ってくるのが常だった。

それがどうだ。今週の新聞を読んでいたら、「はんきち」があるではないか! それも天下の成田山新勝寺と浅草寺でなのだ。しかし何故か、「はんきち」についての言及が為されない。

どうしてなのか、はんきち。取り上げてくれよ、はんきち。がんばってくれよ、はんきち。

そう声を掛けたくなった。

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# by k_hankichi | 2017-01-13 06:53 | 街角・風物 | Trackback | Comments(5)
2017年 01月 12日

物語は勧善懲悪というわけではない

友人から、『第三の男』の最後のシーンの解釈は、このようにもあるよ、と教えてもらった。松岡正剛さんのブログの言葉だ。→http://1000ya.isis.ne.jp/0844.html

次のようにしるされていた。そして、僕は不覚にも、男と女の愛というものが、いかなる罪悪をも超えるほどの強さをもっている、ということを忘れていたことに気付いた。「物語というものは常に勧善懲悪」という訳ではないのだ。

 決定的な違いは有名なラストシーンに劇的に集約された。原作では、警部とともにハリーの埋葬を終えたアンナが誰にも挨拶せずに並木道を歩き始めると、警部に車を勧められたマーティンズがこれを断ってアンナを追い、やがて二人が肩を並べて歩きだす。「彼は一言も話しかけなかったようだった。物語の終わりのように見えていたが、私(警部)の視野から消える前に、彼女の手は彼の腕に通された」というふうに終わっている。
 ところが、よく知られているように、映画では警部とともにマーティンズを乗せた車が、いったん冬枯れの並木道のアンナを追い越し、しばらくしてマーティンズが降りる。カメラが並木道をまっすぐに映し出すと、遠くにアンナが見える。マーティンズが道端でそれを待っているあいだ、カメラはしだいに近づくアンナと舞い散る枯れ葉を撮りつづけているのだが、マーティンズの傍らを過ぎるアンナは一瞥もくれずにそのままカメラに向かって歩いていって、そこでチターがジャランと鳴って、幕切れなのである。
グリーンはこのラストシーンの変更を、「これはリードのみごとな勝ちだった」と脱帽した。

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# by k_hankichi | 2017-01-12 00:40 | 映画 | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 11日

『第三の男』を初めて観終え、第四の男を讃える

年末年始のMXテレビの録画で実は初めて『第三の男』を観た。

言わずもがなの作品で、キャロル・リード監督の名作だ。そして「第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にしたフィルム・ノワール」、とも書かれている。

映像美は素晴らしく、主題音楽のすばらしさと相まって、陶酔しそうになる。

ところがストーリーはとんでもない。

ペニシリンを薄めて横流しする男が、その犯罪を煙に巻き、如何に当局から姿を眩ますかということに対して、それを知らずに彼を訪れた善良なアメリカの友人が当惑し、やがて対峙する、というもの。横流しが単に金稼ぎだけであれば世間に害は少ないが、薄めた薬が老若男女が新たな病気になって苦しむことを生み出している。

女は愛する人が犯罪者であるにも関わらず、それに対して知らぬふりをしようとしていくわけで、それを放置するわけにはいかないのが普通だ。

墓地から続くウイーンの並木道のラストシーンで、女が正義の男の横を一瞥もせずに歩き去ることが哀愁もたらす、ということになっているのかもしれないが、ストーリーを良く追ってみれば、その女もソビエトに送られていてしかるべきで、男の前を三顧の礼を以て立ち止まるべきだろう。

邪知暴虐を治めた、この第四の男をもっと讃えるべきではないかと思った。


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From https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=2869806

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# by k_hankichi | 2017-01-11 06:52 | 映画 | Trackback | Comments(3)
2017年 01月 10日

正月二度目の詣で

三連休の最後は、今月二回目の神社詣で。願かけるところがあって、その御利益あらたかなる神奈川の前鳥神社。

神社なのだけれど、どうしてか鐘があり、家人は無邪気にもそれを撞いていく。願の成就に、どれだけ利くかしらん。

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# by k_hankichi | 2017-01-10 00:37 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)
2017年 01月 09日

誘い文句に負けた日

「人間の真の価値とは何かを問う、ラグジュアリー・サスペンス イタリア・アカデミー賞(ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞)7部門受賞」と書いてあれば、そりゃ凄そうだと足を運んでしまうものだ。作品賞、主演女優賞、助演女優賞、助演男優賞、脚本賞、編集賞、録音賞。

その『人間の値打ち』(Il capitale umano, 2013年、イタリア)を神奈川の二番館で観終えて、嘗て燦然と輝いたイタリア映画の威光はどこにいったのだろう、と思った。

舞台は北イタリアの富豪のベルナスキ家。広大な敷地と御殿。その間にうごめく人間たちの欲望を描いた作品なのだが、あまりにも人間関係が薄っぺらだ。イタリア人はこんなものになってしまったのか。

あるじのジョバンニ・ベルナスキは富を保つ欲望。
ジョバンニの妻・カルラは、嘗ての舞台女優の栄光を取り戻す欲望。
彼らと親交を持てたと考えている不動産業を営むディーノ・オッソラは、富を得る欲望。
その恋人ロベルタは、子供を得る欲望。
オッソラの娘セレーナは、真の愛を得る欲望。
そして、セレーナが愛するようになるルカ・アンブロジーニは、人間として認められたい欲望。

或る夜に起きた自動車によるひき逃げ事件をきっかけに、彼らの欲望の渦がそれぞれの欲望を暴く方向に動いていく。

映画はつまらなかったけれど、金持ちというものはどういう思考をするものなのか、ということだけは分かった。

■映画トレイラー →
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# by k_hankichi | 2017-01-09 00:39 | 映画 | Trackback | Comments(3)
2017年 01月 08日

15パズルの苦き思い出

正月の遊びの話をしていたら、そのなかで15パズルのことが出てきた。

ああ・・・、あのイライラが募る遊び・・・。15枚のブロックを動かしながら、「15」を出口まで持っていくルールだ。

プラスチックの欠片が何ともちっぽけで、ちまちましていて安っぽく、なのにどうして15番を出口に持っていけないのか、苛立ちだけが募る。出来なくて、しまいにはブロックをぐちゃぐちゃにバラして、止めにしてしまうのが常だった。

もし今やっても、同じだろう。

苦手なものは徹底的に苦手。いやなものは徹底的に嫌。ぐちゃぐちゃにしたいものは徹底的にぐちゃぐちゃにしてしまいたい。

変わらない性格である。

■15パズル

By Micha L. Rieser - Own work, GFDL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3104433。
 

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# by k_hankichi | 2017-01-08 08:45 | 街角・風物 | Trackback | Comments(3)