知識とは想起だということ

ここ数日、記憶の大切さということが頭の中を巡っている。ようやっと読了した『ピアニストは語る』(ヴァレリー・アファナシエフ、講談社現代新書)のなかでも、次のように語られていた。

“プラトンの『メノン』などの対話篇によれば、知識とは想起(アナムネーシス)、すなわち自分がすでに自らの裡に持っているものを想い起こすことだというのです。あなたの心は、すでにすべてを持っている、だからプラトンは、知識の一側面としての記憶について語ったのです。あなたはすべてを知っている、しかしこの知識を、自ら思い出さなければならない。ほんとうの知識は、外から来るのではないのです。
(中略)
わたくしの考えでは、芸術とは他者とのコミュニケーションではなく、愚かさへの抵抗の行為なのです。外部に行って、いったんは受け身になって何かを得る。しかしヘーゲルも言うように、その得たものと共に再度みずからに回帰し、このプロセスによってさらに自分を豊かにし、自分の思考の幅を広げ、仕事の射程をさらに長いものにする。哲学者にとってだけではなく、ピアニストにとっても孤独が重要だと私が考えるのもそのためです。”(「第1部 人生」より)

アファナシエフのピアノを聴いていると、そこには作曲家でもなくピアニストでもなく、そしてまた一人の表現者ということでもなく、「一人の人間がそこに居る」、と感じるのはなぜなのかが、ようやくわかってきた気がした。

ピアニストは語る (講談社現代新書)

ヴァレリー・アファナシエフ / 講談社

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# by k_hankichi | 2016-09-27 00:25 | | Trackback | Comments(1)

深い感慨に包まれる秀作

久しぶりに読み応えのある小説だった。『狩りの時代』(津島佑子、文芸春秋)。今年亡くなられた著者の遺作だ。

テーマは「差別」である。僕ら一人ひとり、人間の一人ひとりに問いかけられているようで、心の底が抉られていくように感じる。

舞台は日本と米国、そして欧州まで踏み込んで、第二次世界大戦の前から戦後日本、そして現在まで。そのスケールにも深く吐息をつく。

ウンベルト・エーコが説いているように、記憶が積み重なって交錯する。幼いころに投げかけられ、心に傷を負わされた言葉が呼び起され、そしてそれを発した人は誰なのかが最後に明らかになる。それはシェイクスピアの悲劇のような佇まいだ。

娘さんがあとがきを書かれている。

“私は夢中で作品を読んだ。読み進めるうちに母が話していたことが次々とよみがえる。ダウン症だった兄との思い出。大家族の空気。人々の視線。記憶をたどる手触り。こうしてひとつの作品に編み上げられて、初めてその意味が理解できる。
それは出逢ったことのない差別の話だった。
描かれているのは、差別とはなにか、いや、人間とはなにかという問いだ。どうしたら差別を乗り越えられるかと言っているだけで差別をわかったつもりになっていた。目をそらしてきた心のなかを突きつけられて、人間の複雑さを思い知らされた。この作品をいま、差別のなかで生きる人々に届けなくてはいけない。”(以上、津島香以による文章から抜粋)

太宰治は、津島美知子とのあいだに3人の子供(長女園子、長男正樹、次女里子[本作品の著者])を設けているが、これはこれからの人々がどのように生きていくべきかを問う形で、亡き兄に捧げた作品でもあるのだとも思った。

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狩りの時代

津島 佑子 / 文藝春秋

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# by k_hankichi | 2016-09-26 06:56 | | Trackback | Comments(3)

『記憶について』のエーコの映像

「私たちの存在は私たち自身の記憶にほかならない。記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う」

ウンベルト・エーコは言う。いっぽうで、人は簡単に記憶を失う。人の記憶はあてにならない。そのようにも彼は考えている。だからこそ記憶を失ってはならない、と彼は繰り返している。

ミラノの自宅で撮影されたこの映像のなかでエーコは、迷宮のようになっている書架に囲まれたなかで、自分自身の持つ記憶を紡ぎ出すかのように語っている。

何度も観ているうちに、僕も自分の記憶ということがどれだけ確かなのか分からなくなり、なんだかとても不安になった。

※以下、2015年のヴェネツィア・ビエンナーレ美術展のイタリア館展示ビデオ。

■Umberto Eco, Sulla memoria. Una conversazione in tre parti, 2015. Parte 1. Regia di Davide Ferrario →https://youtu.be/Hq66X9f-zgc

■Part 2. https://youtu.be/zj1kwT87ne0

■Part 3. →https://youtu.be/B-M8V0PcCrw

 
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# by k_hankichi | 2016-09-25 00:41 | | Trackback | Comments(0)

ウンベルト・エーコの通奏低音・・・ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章

以前、ドイツ人と話をしていて『薔薇の名前』が最もお薦めだ、と言われていながら、ウンベルト・エーコにはなかなか手を出せていなかった。量塊を前にして尻込みをしていた。

そんななか、先週、ふと訪れた書店の店頭でこの本を知り、結局、出張の往き帰りで読了。『ヌメロ・ゼロ』(河出書房新社)。登場人物はほぼ8名。彼らはミラノのある富豪筋から、新聞のパイロット版を出す依頼を受けて画策している。真の目的は何か。それを彼らは知らない。しかし、政治経済の中枢に居る人々を脅かそうがためであることは感づいている。

パイロット版を第0号(ヌメロ・ゼロ)と称し、第0-1号から、0-12号まで出すべく、さまざまな試行を繰り返し、ダメ出しをされながら、徐々にスキャンダラスな新聞の見本が出来上がっていく。イタリアに巣食う、第二次世界大戦時期からのさまざまな陰謀と展開が、垣間見られて来る。その結末に待ち受けるものは何か。

本のカバーの見返しには、著者の次のような言葉が記されている。

「記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う。」

イタリア人や西洋人がもっているだろうそれらの時代の記憶の欠片を僕は持ち合わせていない。極東に生きる我々には、ちょっとピンとこない。それでも、その裏に蠢くものの空恐ろしさ、そしてそこに触れた瞬間生きて帰ってこれないこともあるのだということは予想できる。

初めてのウンベルト・エーコの世界は、僕には粘度が高すぎたのだけれど、次のような台詞が中にはあって、それには救われた。作家の子供のころの体験(記憶)に根差したものだと思ったからだ。

“あの晩、マイアはベートーベンの交響曲第七番をかけた。そして、目を潤ませて、少女時代から第二楽章になると涙ぐんでしまうのだと言った。「十六歳のときからなの。お金がなくて、たまたま知っている人がただで劇場の天井桟敷に入れてくれた。でも、席はなかったから、階段に座り込んで、いつの間にか寝そべってしまった。堅い木の床だったけど気にもしなかった。で、第二楽章で、このまま死にたいなって思って、泣いてしまった。私、ちょっとおかしかったのよ。でもまともになってからも泣き続けた」”(「六月六日 土曜日」より)

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ヌメロ・ゼロ

ウンベルト・エーコ / 河出書房新社

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# by k_hankichi | 2016-09-24 09:37 | | Trackback | Comments(2)

「おはぎは主食には非ず、然してごはんなり」

お彼岸だった。昼過ぎから台所では様々な支度が行われ、晩ごはんは満韓全席のようになっていた。

その真ん中に鎮座するのが、おはぎである。「お彼岸である、皆ものども食べよ」というような趣旨の説明があり、さらに「これは主食ではないから、ごはんもしっかり食べるように」という沙汰がある。

おはぎの中身は餅米で、だからこれは主食では?という疑議が出ようとも、「否、主食に非ず、おかずなり、食べよ」という指示。

しかたなく両方を食し、彼岸に感謝を捧げる。

さて本日。

いつもの出張のため朝が早い。朝ごはんは?との問いに対して、「ごはんは昨日のおはぎを食べてね」との返事。

「ん?おはぎは、ごはんではないのでは?」

問いには答えが返ってこない。仕方がなく、件のおはぎと味噌汁で腹を満たす。

「おはぎは主食には非ず、然してごはんなり」

おはぎは変幻自在の存在と知った。

■その名残のおはぎ
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# by k_hankichi | 2016-09-23 06:29 | 食べ物 | Trackback | Comments(4)

始随芳草去、又逐落花回

「始随芳草去、又逐落花回」という句を漱石が好んで書いた、それを世話になった雲水が後から知って弔電として送ってくれたとあった。 しづごころなく 花の散るらむ。というような歌を知ったときに近い感銘を受けた。

『漱石の思い出』(夏目鏡子述、松岡譲筆録、文春文庫)は圧巻で、よくぞここまで漱石との生活を記憶しているものだと舌を巻く。

小説の世界だけでしか知らなかったこの作家の、私生活がこのように波乱万丈であったとは。再び、あの小説の数々を読み直したいと思った。

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漱石の思い出 (文春文庫)

夏目 鏡子 / 文藝春秋

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# by k_hankichi | 2016-09-22 20:44 | Trackback | Comments(3)

エルガーのヴァイオリンソナタの儚さと溌剌

先週末、馴染みの中古レコード店にいつものように立ち寄り、ひととおり店主とお喋りをしたあと音盤探しをしていた。

その時、新しい曲が掛かり始めた。不思議なる魅力を備えたヴァイオリンソナタだった。

そこには少し俯きがちな姿勢から、新たな明日を見つめようというような雰囲気があった。儚さ(少しの不安)に健全なる溌剌が混じった様相。手は音盤に次々と触れながら、耳と頭はその音楽に捕らわれて、生ける浮遊人のようになっていた。

第二楽章に入って更に心が震えた。こ、この繊細さはなんなの?いきなり女言葉になりそうになる。

第三楽章はこころに寄せては返す、たおやかなる波だ。その波は僕をしっかりとさせようと緩急を混ぜながら、並走者のように触れるか触れないかのようにしてくれている。

クライマックスに於ける、温もりが何層の厚みになったような血潮に気倒されそうになりながら、それは締め括られた。

思わず店主を見返した。

「はんきちさんが好きそうかなと思って」

黙って頷いた。そして確かに買い求めていた。

「この音盤が無くなると淋しい・・・」

後ろ髪を引かれるようなその声が、店をあとにするときにこだましていた。

フランク & エルガー : ヴァイオリン・ソナタ

五嶋みどり / ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル

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# by k_hankichi | 2016-09-21 07:50 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)

『五嶋みどりがバッハを弾いた夏』のこと

このような番組が放映されていたとは、迂闊だった。しかし、あのころは、五嶋みどりというヴァイオリニストの名前は知っていただけで、近寄らないようにしていたから、結局、聴くべき時に耳を傾けることが出来たということになる。『五嶋みどりがバッハを弾いた夏』(BS朝日)。
http://www.bs-asahi.co.jp/gotomidori_bach/content.html

多忙ななかにも広く世の中に語り掛けるようなツアーを試みることに、彼女の表には見えない強い意志を感じる。そこで演奏された音魂の美しさには、いま4年後に、まるで知らなった世界に触れる悦びとともに本当に感銘してしまった。

彼女と、そして庄司紗矢香の音を聴くことが、これからの儚い希求になるのだと思った。

■五嶋みどりがバッハを弾いた夏・2012
https://youtu.be/jGLoK0rRUVM

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# by k_hankichi | 2016-09-20 06:37 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)

五嶋みどりの最初のバッハ

友人から、このバッハの無伴奏の演奏が凄い、と言われてそれを街で探し回ったが無かった。→まだ聴くことのできないバッハ

がっくりしていたところに、この全集が目に入った。今年ドイツで発売された10枚組の特選盤集だった("The Art of MIDORI")。最初に聴き始めたのが、バッハであり、それは無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番、BWV1003で、すこし音が鳴り始めただけで、それが全く別の世界のバッハだと分かった。

それは遠く離れた、孤高で怜悧な場所から呼びかけてくるような響きだった。それは哀しみとも違う。でも、そこには木々があり、そしてその合間にはちょっとごつごつとした岩肌が見えている。

だからといってそこは殺伐ということではく、その足元には静かに脈々と流れるものがある。つまり生命の誕生の場所のようなところだ。

聴いている僕は透き通ってゆく。悪いものが抜けてゆく。邪な考えが雲散霧消していく。

涙を流さずに聴きとおせない、おっそろしく素晴らしいバッハだった。五嶋さんをもっと早く知っているべきだった。

■曲目
・バッハ:無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番イ短調, BWV1003
・バルトーク:ヴァイオリンソナタ第1番, Sz. 75, BB84
■演奏:五嶋みどり、Robert McDonald(pf)
■収録
・2005/8/22-23, Mechanics Hall, Worcester, Massachusetts (Bach)
・1999/9, 同上(Bartok)
■音盤:ソニーミュージックエンターテインメント・ジャーマニーGmBH 88875183402-7

Various: the Art of Midori

Midori / Sony Classics

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バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番/バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ第1番

五嶋みどり / ソニーミュージックエンタテインメント

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# by k_hankichi | 2016-09-19 08:20 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)

『驟雨』に心打たれる

水木洋子の脚色は、あの映画『浮雲』で至極深く感銘していて、だからこの機を逃してははらないと、出張続きが明けて朦朧とした土曜日であろうとも、街に出かけた。

ようやっと神保町シアターで観た成瀬巳喜男監督の『驟雨』は、家庭生活の安泰と倦怠のバランスのなかで幸せということの意味を探り掴みだす夫婦の「美学」のような作品だった。
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=24670
 
ストーリーは決して甘美なる世界を描いているわけではなく、まして模範的な夫婦愛を満載しているわけでもない。ただただ、平凡なサラリーマン世帯の夫と、専業主婦が繰り出す、伸びきった日々の重なりだ。

それらなのに、美しいと感じるのはどうしてだろう。ラストの、妻と夫が紙風船を打ち上げ合うシーンで、思わず涙がじわりと出てきてしまったのは何故なのだろう。

失われていきそうな男と女の、幸せの原点。そういうものがそこにあったのだと思った。

現代には、それはどうなっているのだ、という問いは愚問だった。

■スタッフ
 監督:成瀬巳喜男
 脚色:水木洋子
 原作:岸田国士
 製作:藤本真澄 、 掛下慶吉
 音楽:齋藤一郎
■出演
 並木亮太郎:佐野周二
 妻文子:原節子
 姪あや子:香川京子
 今里念吉:小林桂樹
 妻雛子:根岸明美
■製作
 1956年、東宝

成瀬巳喜男 THE MASTERWORKS 1 [DVD]

東宝

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# by k_hankichi | 2016-09-18 00:32 | 映画 | Trackback | Comments(6)


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