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甘味の眩暈

子供の頃、乳歯の上の歯も下の歯もお菓子の食べ過ぎで全て虫を食ってしまい、結局、総入れ歯になっていた。話によるとチョコレートばかりねだる僕に対して、父親は可愛さあまり毎日チョコレートを土産に持ち帰って与えていたかららしいが、それは会社帰りのパチンコの恩恵だったのもしれないと薄々勘付いている。

時間が経つに連れ永久歯に生え変わり、これからは甘いものは控えるのよと母親から諭されたけれど、甘い物好きは変えられずに今に至っている。

春になれば苺パフェが食べたくなり、夏になれば白玉あんみつが食べたくなり、秋になればプリン・ア・ラ・モードを食べたくなって、冬になればとらやの羊羹を一本丸ごと食べたくなる。

週末に行ったのは苺屋さんが営んでいるお店。旬の苺がふんだんに入っている苺パフェなどを食べて満喫した。

食べ終わったさきから、他の甘いものも食べたくなり、これは完全なる糖尿病路線であることは間違いないが、一緒に行った家族も目を爛々とさせているから、僕を誰止めてくれる気配がしない。

甘いものの食べ過ぎは、脳から危険信号(ボーッとしてくる)が出てくるらしいから、生理的な自律自制反応能力を信頼してこのまま身も心も委ねるこことする。


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# by k_hankichi | 2024-03-18 07:25 | 食べ物 | Trackback | Comments(4)

新聞の書評を読んで買い求めて一気に読了。『隆明だもの』(ハルノ宵子、晶文社)。

ハルノ宵子が書いた吉本隆明全集の月報と、妹の吉本ばななとの対談などからなっている。どちらも作品そのものではなく隆明と家族とのかかわりが書かれている。月報としては極めて異色だろう。

娘たちは吉本隆明の論理的な飛躍が半端ではないことに幾たびも遭遇していることにも驚くが、そういう隆明も晩年思考はほとんど破綻していたのだということも知って、偉大な思想家でさえそうなるのか、と溜息を付く。

彼女たちが子供の頃に遊んでもらった人たちのことにも触れられている。

島尾敏雄が子供と来てその子と遊んでいた。奥野健男が来たらその子供を必ず泣かせていた。ハルノ宵子の家庭教師を芹沢俊介がしていた。

なんとまあ贅沢なことなのか。

僕は長女・ハルノ宵子によるマンガや、吉本ばななによる小説は一つも読んだことが無いのだけれど、この一冊を読んでみて、彼女らが実に伸び伸びと自由奔放に育てられ、それによってそれぞれの領域の立派な第一人者になったことだけは理解できた。

いずれ彼女らの作品も読んでみたい。


『隆明だもの』は説明になる_c0193136_21324079.jpg


# by k_hankichi | 2024-03-15 07:04 | | Trackback | Comments(4)

新聞の日曜版コラムでラファエル・クーベリックが指揮するモーツアルトの交響曲が紹介されていた(鈴木敦史による)。僕にとってこの指揮者は「中庸で無難」と分類し熱心に聴くことはなかったから、このようなところで出会って驚いた。

音盤を探したらとても安価で手に入れることができ、聴き始めたらそれが素晴らしくてひたすら驚いている。

第40番ト短調の演奏はこれまで聴いたことのない清澄なもの。

第1楽章は「そーっと、そっと」というほどの極めて丁寧で労わるように寄り添ってくれる。そこにあるのは悲壮感ではなくて逆に雲間に見えるような明るさかもしれない。ひとつひとつ噛みくだくように説明してもらっているような感覚に包まれる。

第2楽章も優し過ぎず、かといって淡々としているわけではない。「何かがそこから生れる世界」のようなものを表そうとしていることだけは分かる。ある種、詩吟のような呟きに近いかもしれない。

第3楽章もまったく肩の力が抜けている。こんなに自然体な第3楽章を聴いたことが無い。

終楽章も変わらぬ均整のあるテンポと抑制が保たれ続けて締めくくられる。こんなに明るい曲だったのかと思う。演奏している奏者たちも「え?こんなんで良かったの?」と呆気に取られていたのではないのか。

この世界を知ってしまうとこれまで聴いてきた演奏が、あまりにも深刻ぶり気持ちを張り詰め過ぎであり悲愴的過ぎだったと感じる。

第41番ハ長調も異次元だった。これもまた丁寧で、決して急くことなくまた変に抑制を利かせすぎていない。中世の舞台演劇が開幕して俳優が身を端麗に動かし語っていくかのよう。王子や皇女がそこに語らい身を寄せたり擦れ違ったり、挨拶を交わしていくドラマだ。こんな拡がりがあったのかと驚く。

音盤のライナーノーツを小石忠男(懐かしい)が書いていて、ああ、まさにその通りだと納得する。

“クーベリックの考えたモーツァルト解釈、彼の感じた音楽には必須の速度といえる。だからこそ、これらの演奏はすこしも重苦しくならず、それどころかときには浮揚するように軽やかである。それはこの指揮者が音楽を自然体としてとらえていることの証明だろうが、それでいて耽溺しない客観性、音楽をぎりぎりの線で崩さない自制が、表現に格調高い気品をあたえている。”

いやはや、この世のなか、底知れぬ世界がまだまだあるのだなあ。


■曲目
モーツァルト:後期交響曲集(第35, 36, 38, 39, 40, 41番)
■演奏
ラファエル・クーベリック指揮、バイエルン放送交響楽団
■収録
1980.6.8-10, 10.15-18
■音盤
CBSソニー 75DC843-5





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# by k_hankichi | 2024-03-14 06:50 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)

父の詫び状

今週のテレビドラマ『さよならマエストロ』第9話(第9楽章)は、長いあいだ心が通じなかった父と娘がとうとう和解した。

音楽がそれを後押ししてくれたことは予想通りだったけれど、そもそも不仲になった決定的な切っ掛けが、実は父親側に有ったことには驚いた。

コンクールでのメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲・第2楽章(ピアノ伴奏版)。テレビドラマのなかといえども僕からみても素晴らしい演奏だった。

全てを出し切った会心の演奏だったと満足していた娘に向かって、父は「あそこをもうすこしああしたらもっとよいね」とコメントして自分の仕事へ走り去ってしまったのだ。

それを言っちゃあ御仕舞よ。

悪気があって言ったのではなく、音楽の専門家としての本心からだった。しかしそれが彼女を崩壊させた。

これ以上は出来ない、ここから更にどうしろというのかという怒りと深い絶望。

このシーンは僕の心にも深く突き刺さった。自分の娘たちに、これと似たような言葉を何度も掛けてきたことに気付いたのだ。何度も、何度も。脳天気な親は俺だった。

娘たちの気持ちを慮ると、いたたまれない。いやはや、今更ながらドラマから教えられてしまった。

癒やしてくれるものは何か無いかと考えたが、それはやはり件の協奏曲で、それも並の演奏では駄目だった。

幾つかの演奏を聴いてみて残ったのは樫本大進とイヴラギモヴァ。特にイウラギモヴァの最終盤は憑き物に取り憑かれたような狂ったような演奏で吸い込まれ飲み込まれる。

以下の言葉付けて反省文としたい。

「イロイロ、イッテシマッテ、スミマセンデシタ」


■アリーナ・イブラギモヴァ(フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮、オランダ・ラジオ室内フィル)
■樫本大進(フィリップ・ジョルダン指揮、ウィーン交響楽団)
■和解
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■寛解
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■治癒
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# by k_hankichi | 2024-03-13 06:36 | テレビ番組 | Trackback | Comments(2)

ブログ友から薦められた小説『TIMELESS』(朝吹真理子、新潮文庫)を読了。

心の赴くままに時が流れ・遡り、人と寄り添い・離れ、あちらの場所・こちらの場所、思い出が浮かび上がり・溶け去り、日々が遡り・消え去る。

気を衒っているわけでなく、気持ちの流れに従って自然に、そこはかとなく浮き上がる記憶。この感じがとても良い。

永井荷風の女の暮していた壺中庵に思い出が行ったかと思えば、江戸時代の江姫の葬儀に思いを馳せる。葬儀の沈香木の匂いが辺り一面に何日も何日も広がる。

西久保八幡宮、麻布台、六本木、代官山、日比谷入江、そして奈良。

読み進めていくうちに、夢のなかにたゆたうような心地になっていく。

その風情を表す言葉は、順三郎の詩であるかのよう。時も場所も選ばない夢幻的なる世界。

ときどきぱらぱらと繰ってページを定めずに読み返していきたい。


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# by k_hankichi | 2024-03-12 06:51 | | Trackback | Comments(4)